口ぶりで嘉吉はなか子へ風呂敷包を渡した。
「ぢやア、住所がきまつたら知らせやう。それにしても四五日は俺もあつちこつち歩いてみなけりやならないだらうし‥‥、ま、躯を大事に‥‥」
さう云つて、嘉吉が、砂利の上に降ろしてゐたトランクを持ちあげると、なか子も二三歩それに寄り添つて歩きながら、「さつき、分けて貰つたけど、これ持つてらつしやいよ」と、ハンドバツグの中から、ありたけの銀貨をつまんで嘉吉の手へ周章てゝ握ぎらせるのであつた。
大粒な雨が、家々の軒に光つて降り始めた。「もう、いゝよ。早く行つて気晴らしに働いた方がいゝ」さう云つて走りかけてゐた嘉吉も、大粒な雨に吃驚してガソリン屋の軒へ這入つて行つたが、雨の歩道に突き出てゐる真黒い自分の影を見ると、実際、それは、途方にくれた姿なのであつた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
ガソリン屋の軒で 二人は、藁店の家で笑ひあつたやうに、口のうちであはあは笑ひあふやうな気持ちであつた。なか子は思ひきつて軒を離れた。何時までたつても際限がないことだし 結局こんなになるものなのなら、いつそさつぱりと、自由な方向へ歩いて行つた方がいゝのだと なか子は後も振りかへらないで、船板に小磯と書いてある縄のれんの家へ這入つて行つた。土間の客は女連れで、鍋物をつゝきながら酒を呑んでゐた。なか子が帳場へ這入つて行くと、赤ん坊に乳房をふくませてゐた神さんが、裏座敷の二畳の部屋へなか子を連れてゆき、「そこいらへ荷物を置いて、表へ出てゝ頂戴」と云つた。二階が二間ばかりあつて、茶碗を叩いて唄たつてゐる客達があつた。女中達は、二人ばかりで、どれも丸髷に結ひ、渋い滝縞のまがひお召か何かで、仲々、小料理屋の縄のれんと云つても馬鹿にはならなかつた。
疲かれてはゐたが、なか子も地味な矢絣の錦紗に、無地羽二重の片側帯を締めてゐた。女中達は、まづなか子の着物や帯に眼をやり、「暇で困るのよ」と、何気なくこぼしてゐた。
嘉吉はなか子が去つて行くと、つくづく旅行者のやうな気持ちで、古ぼけたトランクをもてあましながら、軒をひろつて、四谷の方へぶらぶらと歩いた。雨は一寸した驟雨で、泡沫が乾いてゆくと、撒水車の通つた後のやうに、埃くさい街の舗道が、水できらきら光つてゐた。――嘉吉は、洋品店の前で何度か立ちどまつた。鳥打帽子、ネクタイ、Y襯衣、パジヤマ、色々な品物が渦をなして嘉吉の眼の中へ流れ込んで来る。――嘉吉は次から次へと洋品店の前へ来ると足を止めた。いつそ、此足で神楽坂の家へ帰へつてみやうかと思つた。帰へれないまでも自分の家がどのやうになつてゐるのか、せめて遠くからでも眺めてみたいと思ふのであつたが、夜も更けかけてゐる。稲田屋旅館と云ふ商人宿の看板が眼に止まると、嘉吉はふらふらと硝子戸を肩で開けて這入つて行つた。――生涯に於て、嘉吉はこのみぢめさを始めで終りであるやうにと、山から出て来たばかりのやうな、耳朶の真黒い小女が茶を淹れて来ると、暫くは呆んやりとそんな事を祈つてゐた。淋しいと云ふことが、掌のやうなものならば、その痩せた手のやうなものが無数に嘉吉の周囲からつかみかゝつて来る。佗しくて仕方がなかつた。嘉吉は茶をひといきに飲み、二三丁とは離れてゐない処に、なか子が一文も持たないで他人に酌をしてゐる様子を考へると、熱海にもう一晩泊つて来たらよかつたと、愚にもつかぬ思ひごとをしたり、早くから床を敷かせると、嘉吉は女のやうに瞼を熱くするのであつた。言ふことも書くことも出来なかつたが、離れてみると、なか子へ対する愛情が滝のやうに溢ふれ、漂動してゐて、何かとらへどころのなかつた不安が、金や生活ではなく、小さな女の愛情に廻流してゐたのだと、嘉吉はなか子へ向つて、「おゝい、おゝい」といまさら呼びかけるやうな気持ちであつた。
裏窓の下を郊外電車が走つてゐる。嘉吉は何時の間にか、頭の上に灯火をつけたまゝ疲れて鼾をたてゝ寝てしまつた。
なか子にしたところで、今度のことは、何となく気にいらないわかれかたで、あんなに、嘉吉の気質に倦き倦きしてゐながら、びつしより濡れたやうになつて働き口をみつけに何処かへ行つてしまつたとなると、女中部屋に眠つてゐても何となく寝覚めが悪るかつた。気の小さいひとだから、自殺でもしやしないだらうか、そんなことも考へる。だが、ひよいとしたら藁店の家へ帰つて平気で寝てゐるんぢやないだらうかと、なか子は嘉吉の不甲斐なさよりも、自分のおちぶれを身に浸みて感じるのであつた。いつそ、こんな佗しい思ひをするのならば、まだ藁店の店を何とか食ひつないでゐる方がよかつたとも思ふのであつたが、ミツマメホールまで経営して客を惹いてゐる小山洋品店や、あの辺一帯の大小の洋品店のことを思ふと、みんな、みんな、自分の店のやうに、はあはああえいでゐるやうな気もして来る。
嘉吉の前ではどうしてもつけてみる気がしかなかつたが、百貨店でそつとしのばせて来た頬紅も、電気の下でみると案外派手な色であつたので、なか子は、舌打ちしたいやうな気持ちで、あゝ私はいつたいどうなるのだらうと、横になつてゐても眼がさえざえして眠ることも出来なかつた。
その翌日の夕方、嘉吉がインバネスもトランクも持たないで尋づねて来た。なか子はうれしかつたが、わざとふくれた顔をして看板屋の軒下へ嘉吉をひつぱつて行つた。
「どう、勤まりさうかい?」
「あんまりいゝところぢやないわ‥‥」
「さうだろうね‥‥」
「昨夜、どこで泊つたの?」
「昨夜か、昨夜は、ついそこの商人宿へ泊つたさ」
「さう、藁店へは帰へつてみなかつた?」
「莫迦だな、帰へれやしないぢやないか、下手アまごつくと飛んだ目に逢ふよ」
「何か判断がついた?」
「あゝ別にいゝ判断もつかないが、今朝は浅草へ一寸行つて来たンだがね、化粧品の夜店をするンだつたら、委託販売でもつて、少々の品物は借してやらうつて処があるンだが、どうだらうと思つてさ‥‥」
四年の間に、何十度となく別れ話しが持ちあがつてゐながら、いざ、ちりぢりに別かれてしまふと、お互ひの一文なしがさせるわざなのか、年齢から来る未練なのか、やつぱり、肩を寄せてゐると、嘉吉もなか子も淋しいながらもお互ひの心が温まつて行つた。
「夜店?」
「あゝ、どう考へる?」
「さうね、夜店もいゝけど、此頃ぢやア、百貨店も出来てるンだし、ひところみたいぢやないわね。人足も早くなつたし、――でどんなものなの、やつてみると云ふのは?」
「品物かい?」
「えゝ」
「レモン化粧水とか、艶出し油とか、肌色白粉とか、何だかそンなものだけど、元価が一本平均つお[#「つお」に傍点]位なンだから、まお[#「まお」に傍点]位に売つて御覧、日に二十本出てくれると四円は大丈夫ぢやないか、え?」
「だけど、そりやア話ですよ。土地にもよるけど、かへつて田舎まはりして、何々百貨店の見切品とか何とかした方が効果はあるわね、東京で夜店なんて、素人の私だつて駄目なこつたと思ふわ」
「うん、ま、夜店も思はしくないとは思ふが、いまのところ、田舎まはりの旅費だつて大儀だからね」
「だつて、東京で夜店出すにしたつて、雨風のこと考へないぢや黙目よ。日に四円だつて、丸々百弐拾円儲けられたら、夜店商人が首を吊りましたなんて話もないはづよ。ね、もうこれから梅雨季にでもなつて御覧なさい、それこそ干上つちやうぢやないの」
「ま、さう、むきになつて云はなくつてもいゝよ。まだ商売はこれからなンだから、――ところで、文房具はどうだらうね?」
「さうね、化粧品より文房具の方がいゝかも知れないわ?」
二人は看板屋の軒から、何時か歩き始めてゐた。嘉吉もなか子も、夜店の話にすつかり興奮してしまつてゐる。あなたと云ふひとは、私がゐないぢや何も出来ないひとなのねと、なか子は、時々嘉吉にあきれて見せながら、「景気が悪くなつて別れたンぢや気色が悪いつてあんたが云ふけど、こんなにとことんまで来ると今度は私の方が気の毒で見ちやゐられない」歩きながら、なか子があゝと溜息をつくのであつた。――嘉吉は、自分が生きてゐるのか、それともぶらぶら足だけが歩いてゐるのか、今では自分で自分の体工合が判らなくなつてゐた。夜店を出すとは云つたものゝ元手なしの委託販売でもなかつた。拾円ばかりの保証金をおさめてさへおけば、その金高より一寸出た位の品物を借してくれると云ふだけで、嘉吉の云ふ、日に四円の儲けは、嘉吉の描いたお伽話なのであらう。
「一寸、宿まで行つてみないか?」
嘉吉の憔悴した容子を見ると、なか子も厭とは云へなかつた。宿へ行くと、羽織のないなか子を、帳場の者達が、まるでつれ込みか何かのやうにじろじろ眺めてゐる。
部屋の中には、火のない歪んだ箱火鉢に、艶のない落書だらけの机がひとつ、その机のそばには嘉吉のトランクがきちんと寄せてあつた。二人とも、どこへ坐つていゝか判らなかつた。なか子は、わざと大きな音をたてゝ窓硝子をがらがらと開けて、その窓ぶちへ腰を降ろした。郊外行きの茶色の電車が眼の下を走つてゐる。
「あんた、こゝへ寝たの?」
「あゝ」
「随分がらがらした部屋だわね」
「商人宿だもの、こんなものさ‥‥」
立つたまゝ呆んやりしてゐた嘉吉も、なか子のそばへ寝転ぶと、
「酒でも呑みたいね」と云つて笑つた。
「あなた、随分髪が伸びてゝよ、床屋へ行つてらつしやいよ」
「あゝ、床屋も行きたいけど、こんな宿屋にゐて第一落ちつかないぢやないか」
「さうね、そこへ行くと、女つて何処へ行つても落ちつけるけど、男つて、こんなになつたらさうもゆかないでせうね」
嘉吉は、言葉つきまでよそよそしくなつたなか子の横顔を眺めながら、頬紅を万引してた時のなか子の方が、よつぽど自分の女房らしかつたと思へた。いまは言葉があらたまつたゞけでも、一里や二里の距離は出来たわいと、嘉吉は、なか子の足をゆすぶると、「おい、おい」と小さい声で呼んだ。
「厭よ、何さッ!」なか子は、まるで鷲のやうに荒く身づくろひして吃驚してゐる嘉吉のそばから立ちあがつた。
「帰へるの?」
「えゝこゝにかうしてゐたつて仕方がないぢやないの!」
「‥‥‥‥」
「ねえ、どうすればいゝのさア、――あなた、インバネスどうかしたの?」
「売つちやつた!」
「さう、ま、温くなつたからいゝけど、まるで裸にならない前に、その夜店でも何でもいゝわ、とつゝきなさいよねえ」
「余計なお世話だ!」
「まア! 怒つたの?」
「仕方がないぢやないか、君のやうに浮の空ぢやないよ、あれかこれか、頭が痛くなる程考へてるンだ! 只、別れてしまへば、君はそれで楽々出来るだらうさ、えゝ? 女にやすたり[#「すたり」に傍点]はないからね。――夫婦つてものは、そんなものかねえ、悪くなつたら、わかれてしまつてはいさよならなんて‥‥」
嘉吉は、自分で自分の言葉に沈没して行くのであつた。
「まア、また、そんなこと云つて、厭ねヱ‥‥ちやんと、あんなに気持ちよく話しあつて、当分どうにかなるまでつて云つてあるぢやありませんか、――あなただつて、私のやうなものより、いゝ奥さま貰つて、赤ちやんでも出来たら幸せぢやないのウ‥‥」
嘉吉は起きあがるなり、なか子の胸倉を突いて引き倒ふした。展いた窓から、広告球《アドバルン》がくるくる舞つてなか子の眼へ写つて来る。
平手打ちを食つて、頬が焼けつくやうであつたが、なか子は泣かなかつた。眼をつぶつて森としてゐた。嘉吉はなか子の上に馬乗りになつてせいせい云つてゐたが、胸を締めてゐた両の手を休めると、お互ひに森となつて、よくお化けだお化けだと云つてゐたことを二人とも不図思ひ出してゐたのだ。
嘉吉の心の中には溢ふれるやうな暴力的なものもあつたが、最早、分別がつきすぎてゐる。「どうした? 御免よ!」さう云つてなか子の首を抱いて優さしく起こしてやつた。
「男も、こんなになつたらお終ひさ」
「‥‥‥‥」
「帯を締めなほして、早く帰へつた方がいゝぜ」
嘉吉は窓の手欄に首を垂れて、もしやもしやした頭髪の中へ両手を入れて、狂人のやうに雲埃を払つた。――なか子は、横にな
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