さへも当つてみやうと、眼を皿のやうにして、小さい金融会社を、あつちこつちと探がしてみるのであつた。あせればあせつてゆく程、砂地がずりさがつて行くやうに、何も彼も風にもつてゆかれて家の中ががらんとなつて行く。――店の中へ何も並べるものがなくなると、浅草あたりの化粧品問屋から、安いポマードや水白粉のやうなものを仕入れて来て、一つならべに陳列に出しておいたが、結局そんなことは、嘉吉のみえのやうなもので、家賃も一ヶ年あまりもとゞこほり、しまひには家主のお神さんが店の先きで泣いてしまふほどの詰りやうでどうにも首がまはらなくなつてしまつたのである。

 唇に蜂蜜を塗り、舌の先きで丁寧に嘗めまはしてゐたなか子は思ひ出したやうに立ちあがると、押入れから褞袍を出して嘉吉の裾へかけてやつた。嘉吉は、もう、女からわかればなしを持ちかけられるやうでは、男も下の下だわいと、瞼を閉じたまゝ不吉なことばかりを、あれこれと考へ耽けつてゐた。
「だつて、さつきの話ね、二人ともさばさばしてるンぢやないのさ、こんな店なんて未練なンか持たない方がいゝわ。第一、ハンカチ一つ買ふんだつて、デパートで買ひたがるンですもの、しかも、こんな小さな店なんか、こゝ二三千円がとこ、誰かがくれたつてどうにもたつてゆきやアしませんよね」
「そりやアさうさ。かう、百貨店がによきによき出来たり、少しばかりたつぷりした資本でもつて、マアケツトみたいなものをやられたンぢや、誰だつて、こんな陰気な店なんかふりむいちやくれないよ――時世が変はつてしまつたのだし、こゝ二三千円、誰かくれたとした処で、俺はこんな商売はもう止めだ」
「ぢや、何をするの?」
「何をするつて、先きだつものは金だよ、何をするにしたつて、何とか資本がなくちや、どうにも仕様がないさ‥‥」
「ねえ」
「うん‥‥」
「いつたい、雑作だのがらくたを仕末してどの位出来る?」
「雑作なんて、家主に家賃のかた[#「かた」に傍点]だぜ、がらくた売つた処が二束三文で、せいぜい一晩泊りで、近かくの温泉へ行ける位のもんだらう‥‥」
「温泉か、温泉もいゝわね。桜もそろそろ咲きかけてるのに、厭ね、私たち‥‥」
 なか子は五六年前、観桜会とかで足が痺れる程、一日立ちづめで働いた料理屋の生活を思ひ出してゐた。嘉吉は嘉吉で戸外の寒いやうな風の音をきくと、酒でものみたいやうな気持ちになるのであつた。
「ねえ、あと五六日で四月ぢやないの?」
「考へてみると、一緒にならなきやよかたつて云ふンだらう?」
「どうとも御判断に任かせます」
 すると、嘉吉は褞袍を蹴るやうにして起きあがると、冷へた茶をごくんと飲んで、「仕末して、いつそわかればなしが決まつたんだ、温泉にでも行つてみるか」と云つた。
 いまゝで煤けたやうに悄気てゐたなか子は、嘉吉に、温泉にでも行くかと云はれると、娘のやうに眼を晴々とさせて、「まア」と嬌声をあげた。一日のばしにして細々と長らへてゐるより、いつそ、ばたばたと売り払つて温泉にでも行つて、それから二人でちりぢりになつても、遅くはないし、かへつて後くされがなくていゝかも知れないと、「そりア素的よ。考へて御覧なさいな、こんな処でくよくよしてたつて仕方がないぢやないの」と、早、なか子は店から帳面を取つて来て嘉吉の前へ広ろげるのであつた。
「その白い処へ何がどれ位つて、一寸書いて御覧なさいよ」
「がらくたの相場かい?」
「がらくただつて、レジスターだの、陳列箱だの色々あるぢやないの?」
「うん、あるにはあるさ、だけど、あんなのはみんな担保にはいつてしまつて仕様のないもんばかりだぜ‥‥」
「まア、担保つて、何時、そんなことをしたの?」
「何時つて、とつくだよ、吾々は何も身についたものありやアしないさ」
 なか子は、そんなものまで嘉吉が金に替へてゐるとは思はなかつた。
「ぢや、夜逃げでもしなきや、昼の日なか何も売れやしないぢやないの?」
「さうなんだよ」
「厭ね、別に贅沢してるつてわけでもないのに、相場だの競馬だのつて、こんな小さなうちなんか雀の涙よ。おまけに私に黙つて高利の金を借りたりさ、厭々‥‥」
 なか子はそれでも、温泉へ行くと云ふことがうれしかつた。何でもいゝ家中の物を売り払つて汽車へ乗つてみたくて仕方がなかつた。「ねえ、何とかやりくりして行きませうよ、お互ひそんな思ひ出位あつてもいゝぢやないの」と、なか子は部屋の隅の電気をまぶし気に見あげた。

 その翌る日、人目にたゝぬやうに、嘉吉は通りすがりの年寄りの屑屋を呼び、台所道具から寝具に至るまで二束三文に売り払つてしまつた。――埃のたつやうな花びよりであつたが、藁店の路地の通りは、何時ものやうに森閑としてゐる。なか子は、打水をするやうな様子をして、家主の神さんや、問屋の番頭が来はせぬかと、冷々しながら屑屋が帰へつて行くまでは、馬穴をさげて溝板の上をざぶざぶ濡らして歩いてゐた。屑屋が、幾度も足を運んで、細々した荷物を運んで行くと、二人は、がらんとした奥の居間で顔を視合はせて呆んやり笑つた。
「いくらに売れたの?」
「るたよまる[#「るたよまる」に傍点]、さ」
「さう、仕方がないわね、弐拾七円八拾銭なんて、もう一寸で参拾円ぢやないの?」
「これだけ買つてけば上等の方さ‥‥」
 鏡台も長火鉢も売つてしまつた。流石に箪笥は大きかつたので、そのまゝにしておくことにしたのだが、何となく、なか子にはその箪笥を嘉吉が売りおしんでゐるやうな気がしてならなかつた。――日が暮れると、お互ひに着られるだけのものを身につけて小さいトランクへ二人のものを押しこみ、宵の口に戸締りをしてしまふと、二人はわざと肩をならべて戸外へ出て行つた。「あゝさばさばした」なか子は、まるで里帰へりのやうな陽気さであつたが、流石に嘉吉の心の内には苦味いものが走つてゐた。丁度六年もあの店に坐り、小さいながらも今日までやつて来た事を考へると、鼻の裏が何となく熱い。路地の出しなに、何気なく振り返へつて見ると、黄昏の灯火の下の屋根看板が、嘉吉にはおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた。あの家にも別れ、此女とも別れてしまつたら、いつたい、自分はどこをどう歩き、どこに住んでいゝのかと、嘉吉の心の裡には何とも云ひやうのない落莫としたものが去来するのであつた。
 神楽坂の通りは埃が激しくて、うすら寒むかつたが、町が明るく人通りが壮んなので、何となく活気があつた。
「ねえ、小山は、また陳列を増やしたのね、羊印のメリヤス類ときたら、家より一割五分も高く売つてるのに、どうしてあんな店がさかるのか、本当にわけが判からないわね」
「そりやア、資本だよ。あゝして陳列を増やしたり、ミツマメホールを造つたりすれば、どうしたつて足が向いてゆくよ」
 二坪ほどの一枚硝子のはまつた陳列の中に、洒落れたスウイス製のスポーツ襯衣や、中折帽子、ステツキの類まで飾ざられて、トンボの眼のやうに頭髪を光からせた洋服姿の店員が、呆んやり煙草を吸つたりしてゐる小山洋品店の前まで来ると、二人は思はず陳列の前に暫く立ちどまつてしまつた。別に立ちどまつたところで、かへつて二人とも懐古的になるだけのもので、一つ一つの品物が、二人の眼の中へ鮮かに印象されてゐると云ふわけのものでもない。
 埃の激しい町を、嘉吉となか子はそれから当てもなく新宿の方へ出て行つた。
「歯ブラシを一つ買ひたい」
 嘉吉が歯ブラシをほしいと云ふので、二人は人ごみのなかを抜けて百貨店へ這入つて行つた。夜間営業で、店内は頭痛のするやうな明るさで、造花の桜の枝が方々に飾ざつてある。化粧品売場で、安い歯ブラシをあれこれと選らんで、嘉吉が不図なか子の方を振りかへると、なか子は黙つて頬紅の円い箱を飾棚の蔭の方へ滑らせてゐた。これは悪いところを見たと、嘉吉は周章して勘定を払ひ、なか子をうながしてづんづん百貨店の裏口へ出て行つた。嘉吉はさり気ない風であつたが心のうちでは、かへつて無数の百貨店へ復讐したやうな気持ちでさへあつた。なか子は、お花見時は随分埃が激しいけれど、月が赤くつていゝとか、汽車へ乗るのは何年振りだらうとか、平気な顔をしてゐる。

 その夜の汽車で二人は熱海へ発つて行つた。
 海からはよほど遠い山手よりの小さい宿屋へ泊つた。部屋の窓を開けると、大きな月が靄でかすんでゐる。嘉吉にとつて、女を連れて旅をすると云ふことはかつて一度もないことなので、再び青春が還へつて来たやうに、なか子よりも酒がすゝんだ。あんな店がなんだ。もつと大きい商売をしてお前を愕かせてやるつもりだ。と、何時にない上機嫌で、嘉吉はなか子の肩をびしやびしやと打つたりする。――嘉吉があんな店は何だと、捨てゝ来た店の話を始めるとなか子は亡くなつた前の女房の骨壺が、かたかた音をたてゝ空を走つて来るやうなそんな、錯覚にとらはれるのであつた。女の古里へ分骨して、神棚の上に、小さい骨壺がそのまゝになつてゐたが、なか子は、嘉吉もその亡妻の骨のことを、いま考へてゐるのではないだらうかと、「あんな家なんか」と云はれる度に眉を顰かめて見せた。
 嘉吉は酔ひがまはつて来ると、「せめて五百円位あつたら」とか、「わかれたところで仕様がないぢやないか」と、子供のやうになか子の膝で声をたてゝ泣き始めたりする。

 熱海へは二晩泊つた。
 もう羽織をぬぎたい程な温かさで、裏山の梅の木林には、小さい芽がもえてゐた。呆んやりして土手の上の梅林を見てゐると、その梅林の上を汽車が走つてゐるのが時々見える。なか子はそんな景色を見ると、不図嘉吉と死んでしまひたいやうな気もするのであつたが、それはただ空想してみるだけのことで、伸びたみゝずのやうに、温い陽射しのなかへ、なか子は宿から講談本を借りて来てごろりとしてゐた。
「さア、いよいよ今夜は御帰京だな‥‥」
「‥‥‥‥」
 なか子は、何時まで未練だらだらなのと云つた嶮はしい眼つきで黙つてゐる。――二人[#「二人」は底本では「一人」]はまた夜の汽車へ乗つた。二夜を旅空であかしたけれども、これといつて、二人に徹して来るものもなく、只、他愛のない離別の雰囲気が二人を何時までも苦しめるばかりであつた。――なか子にしても、さて、現実にぶつかつて見ると、年齢もとつてゐる、自分の躯のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが 金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。文字通りの身一つで、これから立つてゆかなければならないと云ふことは妻の前では雄々しいことではあつたが、四十近かい男にとつては、何とない風の吹くやうな空威張りのところが漂ひ、嘉吉にはその空虚さが何となくたまらなかつた。まだ、妻と二人で飢えた方が、どんなにか気安いのだ。
 東京へ帰へつて来ると、二人は汽車の中で相談したやうに、新宿裏の小料理屋をたづねて、女中の口を探がしてみることにした。兎に角、なか子の落ちつき場所をこしらへておいて、それから、自由な方向へ嘉吉が歩ゆんで行くと云ふのだ。
「ねえ、何だか雨が降つて来さうね」
「あゝ、少し降るぜ」
 嘉吉は、陽にやけたインバネスの肩羽根をくるりと後へめくつて、空を見上げた。わかればなしを持ち出したものゝ、こゝまで突きあたつて見れば、こいつも淋しいのに違ひないと、嘉吉は、いつそ口が見つからなかつたら、町裏の木賃宿にでも泊る、そんな覚悟でゐた。軒並みにカフヱーやとんかつ屋や、小料理屋の並んでゐる新宿裏の路地へ這入ると、なか子は風呂敷包を嘉吉にあづけて、それらしい小料理屋へ一軒づゝ這入つて行つた。だが、結局決まつたのは小さい縄のれんのやうな飲食店で、なか子は出て来るなり面目のないやうな顰めた顔をして走つて来た。
「いゝさ、当分だもの、腰かけにいゝよ、気のおけない家ぢやないか」
 嘉吉は何故か晴々とした気持ちでなか子を慰さめることが出来、かうして歩いてみて始めて、お前も自分の年齢を考へたゞらうと云はぬばかりの
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