はおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた。あの家にも別れ、此女とも別れてしまつたら、いつたい、自分はどこをどう歩き、どこに住んでいゝのかと、嘉吉の心の裡には何とも云ひやうのない落莫としたものが去来するのであつた。
神楽坂の通りは埃が激しくて、うすら寒むかつたが、町が明るく人通りが壮んなので、何となく活気があつた。
「ねえ、小山は、また陳列を増やしたのね、羊印のメリヤス類ときたら、家より一割五分も高く売つてるのに、どうしてあんな店がさかるのか、本当にわけが判からないわね」
「そりやア、資本だよ。あゝして陳列を増やしたり、ミツマメホールを造つたりすれば、どうしたつて足が向いてゆくよ」
二坪ほどの一枚硝子のはまつた陳列の中に、洒落れたスウイス製のスポーツ襯衣や、中折帽子、ステツキの類まで飾ざられて、トンボの眼のやうに頭髪を光からせた洋服姿の店員が、呆んやり煙草を吸つたりしてゐる小山洋品店の前まで来ると、二人は思はず陳列の前に暫く立ちどまつてしまつた。別に立ちどまつたところで、かへつて二人とも懐古的になるだけのもので、一つ一つの品物が、二人の眼の中へ鮮かに印象されてゐると云ふわけ
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