のものでもない。
埃の激しい町を、嘉吉となか子はそれから当てもなく新宿の方へ出て行つた。
「歯ブラシを一つ買ひたい」
嘉吉が歯ブラシをほしいと云ふので、二人は人ごみのなかを抜けて百貨店へ這入つて行つた。夜間営業で、店内は頭痛のするやうな明るさで、造花の桜の枝が方々に飾ざつてある。化粧品売場で、安い歯ブラシをあれこれと選らんで、嘉吉が不図なか子の方を振りかへると、なか子は黙つて頬紅の円い箱を飾棚の蔭の方へ滑らせてゐた。これは悪いところを見たと、嘉吉は周章して勘定を払ひ、なか子をうながしてづんづん百貨店の裏口へ出て行つた。嘉吉はさり気ない風であつたが心のうちでは、かへつて無数の百貨店へ復讐したやうな気持ちでさへあつた。なか子は、お花見時は随分埃が激しいけれど、月が赤くつていゝとか、汽車へ乗るのは何年振りだらうとか、平気な顔をしてゐる。
その夜の汽車で二人は熱海へ発つて行つた。
海からはよほど遠い山手よりの小さい宿屋へ泊つた。部屋の窓を開けると、大きな月が靄でかすんでゐる。嘉吉にとつて、女を連れて旅をすると云ふことはかつて一度もないことなので、再び青春が還へつて来たやうに、なか子よりも酒がすゝんだ。あんな店がなんだ。もつと大きい商売をしてお前を愕かせてやるつもりだ。と、何時にない上機嫌で、嘉吉はなか子の肩をびしやびしやと打つたりする。――嘉吉があんな店は何だと、捨てゝ来た店の話を始めるとなか子は亡くなつた前の女房の骨壺が、かたかた音をたてゝ空を走つて来るやうなそんな、錯覚にとらはれるのであつた。女の古里へ分骨して、神棚の上に、小さい骨壺がそのまゝになつてゐたが、なか子は、嘉吉もその亡妻の骨のことを、いま考へてゐるのではないだらうかと、「あんな家なんか」と云はれる度に眉を顰かめて見せた。
嘉吉は酔ひがまはつて来ると、「せめて五百円位あつたら」とか、「わかれたところで仕様がないぢやないか」と、子供のやうになか子の膝で声をたてゝ泣き始めたりする。
熱海へは二晩泊つた。
もう羽織をぬぎたい程な温かさで、裏山の梅の木林には、小さい芽がもえてゐた。呆んやりして土手の上の梅林を見てゐると、その梅林の上を汽車が走つてゐるのが時々見える。なか子はそんな景色を見ると、不図嘉吉と死んでしまひたいやうな気もするのであつたが、それはただ空想してみるだけのことで、伸びたみゝずのやうに、温い陽射しのなかへ、なか子は宿から講談本を借りて来てごろりとしてゐた。
「さア、いよいよ今夜は御帰京だな‥‥」
「‥‥‥‥」
なか子は、何時まで未練だらだらなのと云つた嶮はしい眼つきで黙つてゐる。――二人[#「二人」は底本では「一人」]はまた夜の汽車へ乗つた。二夜を旅空であかしたけれども、これといつて、二人に徹して来るものもなく、只、他愛のない離別の雰囲気が二人を何時までも苦しめるばかりであつた。――なか子にしても、さて、現実にぶつかつて見ると、年齢もとつてゐる、自分の躯のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが 金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。文字通りの身一つで、これから立つてゆかなければならないと云ふことは妻の前では雄々しいことではあつたが、四十近かい男にとつては、何とない風の吹くやうな空威張りのところが漂ひ、嘉吉にはその空虚さが何となくたまらなかつた。まだ、妻と二人で飢えた方が、どんなにか気安いのだ。
東京へ帰へつて来ると、二人は汽車の中で相談したやうに、新宿裏の小料理屋をたづねて、女中の口を探がしてみることにした。兎に角、なか子の落ちつき場所をこしらへておいて、それから、自由な方向へ嘉吉が歩ゆんで行くと云ふのだ。
「ねえ、何だか雨が降つて来さうね」
「あゝ、少し降るぜ」
嘉吉は、陽にやけたインバネスの肩羽根をくるりと後へめくつて、空を見上げた。わかればなしを持ち出したものゝ、こゝまで突きあたつて見れば、こいつも淋しいのに違ひないと、嘉吉は、いつそ口が見つからなかつたら、町裏の木賃宿にでも泊る、そんな覚悟でゐた。軒並みにカフヱーやとんかつ屋や、小料理屋の並んでゐる新宿裏の路地へ這入ると、なか子は風呂敷包を嘉吉にあづけて、それらしい小料理屋へ一軒づゝ這入つて行つた。だが、結局決まつたのは小さい縄のれんのやうな飲食店で、なか子は出て来るなり面目のないやうな顰めた顔をして走つて来た。
「いゝさ、当分だもの、腰かけにいゝよ、気のおけない家ぢやないか」
嘉吉は何故か晴々とした気持ちでなか子を慰さめることが出来、かうして歩いてみて始めて、お前も自分の年齢を考へたゞらうと云はぬばかりの
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