の眼の中へ流れ込んで来る。――嘉吉は次から次へと洋品店の前へ来ると足を止めた。いつそ、此足で神楽坂の家へ帰へつてみやうかと思つた。帰へれないまでも自分の家がどのやうになつてゐるのか、せめて遠くからでも眺めてみたいと思ふのであつたが、夜も更けかけてゐる。稲田屋旅館と云ふ商人宿の看板が眼に止まると、嘉吉はふらふらと硝子戸を肩で開けて這入つて行つた。――生涯に於て、嘉吉はこのみぢめさを始めで終りであるやうにと、山から出て来たばかりのやうな、耳朶の真黒い小女が茶を淹れて来ると、暫くは呆んやりとそんな事を祈つてゐた。淋しいと云ふことが、掌のやうなものならば、その痩せた手のやうなものが無数に嘉吉の周囲からつかみかゝつて来る。佗しくて仕方がなかつた。嘉吉は茶をひといきに飲み、二三丁とは離れてゐない処に、なか子が一文も持たないで他人に酌をしてゐる様子を考へると、熱海にもう一晩泊つて来たらよかつたと、愚にもつかぬ思ひごとをしたり、早くから床を敷かせると、嘉吉は女のやうに瞼を熱くするのであつた。言ふことも書くことも出来なかつたが、離れてみると、なか子へ対する愛情が滝のやうに溢ふれ、漂動してゐて、何かとらへどころのなかつた不安が、金や生活ではなく、小さな女の愛情に廻流してゐたのだと、嘉吉はなか子へ向つて、「おゝい、おゝい」といまさら呼びかけるやうな気持ちであつた。
裏窓の下を郊外電車が走つてゐる。嘉吉は何時の間にか、頭の上に灯火をつけたまゝ疲れて鼾をたてゝ寝てしまつた。
なか子にしたところで、今度のことは、何となく気にいらないわかれかたで、あんなに、嘉吉の気質に倦き倦きしてゐながら、びつしより濡れたやうになつて働き口をみつけに何処かへ行つてしまつたとなると、女中部屋に眠つてゐても何となく寝覚めが悪るかつた。気の小さいひとだから、自殺でもしやしないだらうか、そんなことも考へる。だが、ひよいとしたら藁店の家へ帰つて平気で寝てゐるんぢやないだらうかと、なか子は嘉吉の不甲斐なさよりも、自分のおちぶれを身に浸みて感じるのであつた。いつそ、こんな佗しい思ひをするのならば、まだ藁店の店を何とか食ひつないでゐる方がよかつたとも思ふのであつたが、ミツマメホールまで経営して客を惹いてゐる小山洋品店や、あの辺一帯の大小の洋品店のことを思ふと、みんな、みんな、自分の店のやうに、はあはああえいでゐるやうな気
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