帰へつて行くまでは、馬穴をさげて溝板の上をざぶざぶ濡らして歩いてゐた。屑屋が、幾度も足を運んで、細々した荷物を運んで行くと、二人は、がらんとした奥の居間で顔を視合はせて呆んやり笑つた。
「いくらに売れたの?」
「るたよまる[#「るたよまる」に傍点]、さ」
「さう、仕方がないわね、弐拾七円八拾銭なんて、もう一寸で参拾円ぢやないの?」
「これだけ買つてけば上等の方さ‥‥」
 鏡台も長火鉢も売つてしまつた。流石に箪笥は大きかつたので、そのまゝにしておくことにしたのだが、何となく、なか子にはその箪笥を嘉吉が売りおしんでゐるやうな気がしてならなかつた。――日が暮れると、お互ひに着られるだけのものを身につけて小さいトランクへ二人のものを押しこみ、宵の口に戸締りをしてしまふと、二人はわざと肩をならべて戸外へ出て行つた。「あゝさばさばした」なか子は、まるで里帰へりのやうな陽気さであつたが、流石に嘉吉の心の内には苦味いものが走つてゐた。丁度六年もあの店に坐り、小さいながらも今日までやつて来た事を考へると、鼻の裏が何となく熱い。路地の出しなに、何気なく振り返へつて見ると、黄昏の灯火の下の屋根看板が、嘉吉にはおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた。あの家にも別れ、此女とも別れてしまつたら、いつたい、自分はどこをどう歩き、どこに住んでいゝのかと、嘉吉の心の裡には何とも云ひやうのない落莫としたものが去来するのであつた。
 神楽坂の通りは埃が激しくて、うすら寒むかつたが、町が明るく人通りが壮んなので、何となく活気があつた。
「ねえ、小山は、また陳列を増やしたのね、羊印のメリヤス類ときたら、家より一割五分も高く売つてるのに、どうしてあんな店がさかるのか、本当にわけが判からないわね」
「そりやア、資本だよ。あゝして陳列を増やしたり、ミツマメホールを造つたりすれば、どうしたつて足が向いてゆくよ」
 二坪ほどの一枚硝子のはまつた陳列の中に、洒落れたスウイス製のスポーツ襯衣や、中折帽子、ステツキの類まで飾ざられて、トンボの眼のやうに頭髪を光からせた洋服姿の店員が、呆んやり煙草を吸つたりしてゐる小山洋品店の前まで来ると、二人は思はず陳列の前に暫く立ちどまつてしまつた。別に立ちどまつたところで、かへつて二人とも懐古的になるだけのもので、一つ一つの品物が、二人の眼の中へ鮮かに印象されてゐると云ふわけ
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