「ねえ、あと五六日で四月ぢやないの?」
「考へてみると、一緒にならなきやよかたつて云ふンだらう?」
「どうとも御判断に任かせます」
すると、嘉吉は褞袍を蹴るやうにして起きあがると、冷へた茶をごくんと飲んで、「仕末して、いつそわかればなしが決まつたんだ、温泉にでも行つてみるか」と云つた。
いまゝで煤けたやうに悄気てゐたなか子は、嘉吉に、温泉にでも行くかと云はれると、娘のやうに眼を晴々とさせて、「まア」と嬌声をあげた。一日のばしにして細々と長らへてゐるより、いつそ、ばたばたと売り払つて温泉にでも行つて、それから二人でちりぢりになつても、遅くはないし、かへつて後くされがなくていゝかも知れないと、「そりア素的よ。考へて御覧なさいな、こんな処でくよくよしてたつて仕方がないぢやないの」と、早、なか子は店から帳面を取つて来て嘉吉の前へ広ろげるのであつた。
「その白い処へ何がどれ位つて、一寸書いて御覧なさいよ」
「がらくたの相場かい?」
「がらくただつて、レジスターだの、陳列箱だの色々あるぢやないの?」
「うん、あるにはあるさ、だけど、あんなのはみんな担保にはいつてしまつて仕様のないもんばかりだぜ‥‥」
「まア、担保つて、何時、そんなことをしたの?」
「何時つて、とつくだよ、吾々は何も身についたものありやアしないさ」
なか子は、そんなものまで嘉吉が金に替へてゐるとは思はなかつた。
「ぢや、夜逃げでもしなきや、昼の日なか何も売れやしないぢやないの?」
「さうなんだよ」
「厭ね、別に贅沢してるつてわけでもないのに、相場だの競馬だのつて、こんな小さなうちなんか雀の涙よ。おまけに私に黙つて高利の金を借りたりさ、厭々‥‥」
なか子はそれでも、温泉へ行くと云ふことがうれしかつた。何でもいゝ家中の物を売り払つて汽車へ乗つてみたくて仕方がなかつた。「ねえ、何とかやりくりして行きませうよ、お互ひそんな思ひ出位あつてもいゝぢやないの」と、なか子は部屋の隅の電気をまぶし気に見あげた。
その翌る日、人目にたゝぬやうに、嘉吉は通りすがりの年寄りの屑屋を呼び、台所道具から寝具に至るまで二束三文に売り払つてしまつた。――埃のたつやうな花びよりであつたが、藁店の路地の通りは、何時ものやうに森閑としてゐる。なか子は、打水をするやうな様子をして、家主の神さんや、問屋の番頭が来はせぬかと、冷々しながら屑屋が
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