いいでしょうが、もっと、どうにかならぬものかと考えます。如何《いか》にも国粋主義のようですが、もっとシャッキリしたものに眼をつける娘さんたちがないのを残念に思います。趣味をもっと優しく内気にしてほしいと思います。この間、ある百貨店へ木綿を一反《いったん》買いに参りましたが、木綿のいいのが少しも見当らないのでガッカリしました。木綿で拾円もするようなのはなくなってしまったのでしょう。呉服部のところを歩いていますとまるで博覧会へ行ったようなケンランさで、飛びつくような柄《がら》がすこしもないのです。年齢のせいばかりとは云えないほど、色々な呉服ものの染の悪さに、今さら変ったものだなと愕《おどろ》いてしまいました。おなじ紅色にしても、昔の紅色は奥行きがあったように思います。世の中が進歩しているはずなのに、柄模様ときたら、よくもあれだけセツレツに出来たものだと愕くほどでした。――先日も座談会で山脇敏子《やまわきとしこ》さんが話されたように、いまの絹物にはのり[#「のり」に傍点]の多い地《じ》へゴム印を押したような模様が多いのです。立ちどまってみているひとを見ますと、どこがいいのかしらと思う位です。そんな、デパート選出の柄にみとれている奥さんたちの足袋《たび》ときたら、うす汚れていて、下駄は乱暴なものだったりします。下駄と云えば表つきはきらいです。とくにこの頃のように流行《はや》る靴の型はどうも好きません。足袋は木綿でコハゼがきつい位なのが私にはあいます。絹の着物の場合はキャラコをはきますが木綿が一番はき心地がよくて好きです。
昔、(よく昔の話を云いますが)ヒフ[#「ヒフ」に傍点]〔被風〕
と云うものが流行っていました。胸に房をつけて随分いいものだったと思います。あんなのがもう一度娘さんたちの間に流行ってくれないものでしょうか。メリンスとか銘仙《めいせん》のようなもので不断着《ふだんぎ》にヒフをつくって着るのは温かでいいだろうと考えます。私はいい着物について語るしかく[#「しかく」に傍点]を持ちませんが、不断着はよそぎ[#「よそぎ」に傍点]よりも、もっと考えてもいいと思います。筒袖《つつそで》の袖口を花のように絞って着せられていた頃もありましたが、洋服の合間には、そんなロマンチックな不断の着物もあっていいと思います。
街を歩いていますと、この頃は初夏だから、みんな薄いショール
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