此乘合自動車は、アワイ茶屋と云ふところまで行くのださうですが、昨日の大雨で崖が崩れて通れなく、手前のアジコノ原茶屋と云ふところまで行つてくれましたが、意地の惡い事には亦雨が降り出してしまひました。此茶店まで乘合で二十五錢です。掘立小屋のやうな茶店には繪描きのやうな青年《ひと》がひとりで雨宿りして牛乳を飮んでゐました。
自動車に乘つてゐる間は、それでも二三人の乘客があるので陽氣に話して來ましたが、ポツンと茶店に降りると、雨の中を二里近く歩くのがおつくうになつて妙に陰氣になつてしまひます。
牛乳を飮んで、乘り合はせた東京の小官吏らしい人と、トボトボ雨の中を歩いて、濱ぞひの道を行つたのですが、何もかもじめじめして、只砂道を行く私の運動靴だけが白く眼に沁みるきりです。
やつと、アワイ茶屋に着くと、お八重と云ふ女中が波浮へ電話でも掛けてくれたのか、港屋と云ふハッピを着た宿の若い番頭がむかへに來てくれてゐました。
さの[#「さの」に傍点]濱を通り間伏《まぶし》へ出ると、此邊から風景が雄大になつで來て、雨も上り陽が照つて來ました。
「波浮はとてものんびりしてゐて、人間が呆んやりいゝ氣持ちになつてしまひます」
番頭の言葉に訛りがあるので「どこなの」と訊いてみると「九州の佐賀です」と云つてゐましたが、
「とにかく島へをれば、食つてだけはゆけますので、東京へなぞ出たくありません」なぞとも云つてゐました。間伏からまた乘合自動車なのですが、客が仲々集らないので、道連れの小官吏と番頭と、三人で自動車を走らせて貰らひましたら、此官吏さんは、私の掌に乘合ひの三十錢だけをのせて差木地村で降りて行つてしまひました。差木地村は岡田村とはまた違つた鄙びた村で、眉の濃い子供達が、椿のトンネルの道で犬を追つて遊んでゐるのなぞ、ひどく自然な美しさです。
間伏から、波浮まで、自動車は借りきりで壹圓五十錢です。此道はかなり遠いと思ひました。波浮の港は瀬戸内海を小さくしたのに似てゐて、とても可憐な港です。大島では、こゝが港らしい港で、波浮は村と云ふよりも町と云つた感じ、家が揃つてしつかりしてゐました。
水産試驗所の前から渡しに乘つて、灣の向う側へ着きますと、町の上に港屋と云ふ宿がすぐ眼に這入ります。大島へ來て、始めて宿らしい宿で、中二階のやうな部屋では隱居らしいひとが襖の切り張りなぞをしてゐました。二
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