ですか?」
「ええ、とても、あんな酒飮みつて紳士ぢやありませんね――義之さんと正反對なんですもの……」
「義之君、元氣ですか?」
「ええ、とても。いま滿洲へ行つてらつしやいますのよ。此間いらしつたの……」
「へえ、……滿洲へね……」
「貴方のおうはさよくしていらつしたわ……」
周次は皮膚の澄んだぼてぼてとふとつたくみ子の胸のあたりを眺め、胸のときめきを感じてゐた。
「今日はここへ泊りますか? 僕は飯でも濟んだらぼつぼつ歸りますよ……」
食事を終つて、周次が暑い暑いと籐椅子のところへ行くと、くみ子はしよんぼりと團扇をつかひながら、
「あら、お歸りになるんですか?――私、疲れてしまつてもうどこへも動きたくないの……よかつたら泊つていらつしやらない?」
「ははははは……泊つたところで、僕が困りますよ。明日は早いですからね。どうです? 一寸川べりでも歩いて、それから、一應市内へ歸らうぢやありませんか。友達の家はどこなんです?」
「私ね、本當は、東京で何かして働きませうと出て來たんですの……二三日こんな處でゆつくり躯を休めて、それから友達のところへ行つてもいいのですわ」
「ぢやア、さうなさい。――でも僕は歸りますよ……」
サスペンタアを肩へ引つかけて立ちあがると、くみ子は恨めしさうな表情で周次を眺めながら、
「だつて、色々お話があるんですけどねえ……」
と、泣きさうな聲で云ふのだつた。
「僕は、ここまで來たことだつて、自分で、一寸もてあましてるんですよ。――惡いけど僕は歸ります……」
「ええ、よく判りますわ。でも……だつたら、私も歸りますわ……」
軈てくみ子も默つて次の部屋へ行き、しゆうしゆうと帶の音をさせてゐた。――十一時頃、二人は新宿まで戻つて來た。くみ子は牛込の藥王寺町に友人の家があると云ふので、周次はひとまづくみ子を藥王寺町まで送つて行つた。路地の入口で別れると、周次は更けた町を肴町の電車通りの方へぼつぼつ歩いて行つた。
男の見榮だか何だか知らないけれど、(あんな女なんか何でえ)と思ひつつも、何だか殘念なおもひも殘つて來る。何の爲めにくみ子が自分に逢ひたがつたのか、おぼろ氣に判るやうだつたが、おめおめとくみ子に乘ぜられる氣持ちはみぢんもない。
東中野へ着いたのは一時ちかかつた。
四五日前に來たばかりの若い女中が起きて耳門《くゞり》を開けてくれた。
「お母さん、もう寢た?」
「はい、さつきおやすみになりました……お起しいたしませうか?」
「まアいい。二階は蚊帳を吊つたかい?」
「はい、さつきお吊りしておきました」
周次が二階へ上がつてゆくと、蚊帳の裾をはらふやうな凉しい風が吹いてゐた。ああ吾家の風だな……多摩川ではむしむししてゐたけれど、吾家はこんなに凉しい風が吹く。周次は縁側の手すりへY襯衣《シヤツ》やづぼんをひつかけながら、裸になつていつた。
月がはつきりしてゐる。小さい月だつたが庭のすずかけの梢の向うにまるで置いたやうに澄んでゐた。
「お浴衣をどうぞ……お風呂はどうなさいますか?」
東京訛りのある低い聲だつたが、何となく誘はれる聲音だつた。小柄で鼻の横にほくろがあつて、眼の大きい娘だ。
「暑いねえ……」
周次が暑いねと云ふと、女中のツヤは周次を見上げるやうにして、
「とても暑いんで、私、さつき水道の水を浴びましたの……」
「へえ、そりやあ、でも毒だよ……」
「でも、今日は特別に暑いんでございませうね」
「ツヤは訛りがあるけど、何處だい、國は? 新潟?」
「いいえ信州でございます……」
「へえ、信州、さうかねえ……」
「信州つても小諸なんでございますよ」
「小諸、そりやアいい處だね。――何だつたかな、小諸なる古城のほとり雲白くつて歌があつたな……山國のひとは誠實があつていいよ……」
周次が蚊帳へはいると、ツヤが枕元へ水を持つて來た。周次は煙草をのまなかつたが、水は好きでよく飮んだ。
「おやすみなさいませ……」
ツヤが忍び足で階下へ降りて行つた。周次は寢ながら、くみ子との出逢ひの事を考へてゐた。
(何も彼も、最早、遠きひとだよ)
遠くでサアチライトが光つてゐる。稻妻のやうな青い光芒が、自分の家の屋根までかすめて行つてゐるのか、縁側の向うの空にさつと銀河が走つて行く。
〇
二三日して、くみ子から會社へあてて周次へ手紙が來た。
先日はたいへん有難うございました。
ああして會つて戴けました事うれしい事でございます。良人が亡くなり、自分一人になつてみると、つくづくこれからの私の生涯が怖ろしいものに思へて參ります。
姑《しうと》とも折れ合ひませんのは勿論、私がゐては餘計者のやうに云はれますので、私は里へ戻つて參りましたが、ここでも繼母《はゝ》とはうまく參りませんでした。私にはいこひ
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