の場所も、泣く場所もないのです。東京へ出て、友達の家へ參りましたが、ここへも私は居辛く、昨日、ある知人の紹介で、私は内幸町にある小さい商事會社の事務員になることが出來ました。月給は四拾圓です。
 當分、何とかやつてゆくつもりでございます。今日、四谷鹽町に小さいアパートをみつけました。明日引越します。表記の處でございます。是非一度お出かけ下さいますやうに。末筆ながらお母上樣へよろしく。

 周次は、くみ子も落ちつく處へ落ちついたのかと吻つとする氣持ちだつた。一度は結婚のところまで寄り添つてゆきながら、どんな早瀬のかげんか、ふつと思ひもよらない遠くへはなればなれになつてしまつた二人である。――周次は、くみ子と別れ別れになつて、女も一人二人は知つたが、それは通りすがりの風のやうなもので、今に至るまで、平々凡々の生活だつたのだ。母と女中と自分の生活が、さう不自由なものでもなかつたし、新しい女中は、周次の生活にとつて、近景に花を添へたやうな感じをもたらせてくれた。
「お母さん、今度の日曜日、どこかへ行きませうか?」
 夕方、早々と歸つて母と食卓についた周次が、新聞を見ながらさう云つた。
「さうね、何處でもいいわ……何かおいしいものを食べさせる處がよろしね。水のそばか何かで……」
「ぢやア、家を閉めて皆で行くかな……」
「何處へ行く?」
「多摩川つていい處ですか? 私、まだ行つたことがないんですけど……」
 ツヤが硝子皿にさうめんをよそひながらそんなことをきいた。梅模樣の紺の浴衣に、紅い帶がツヤによく似合ふ。
「何だ、多摩川を知らないのかい? 莫迦だなア……」
「莫迦だなアつて云ふけど、周ちやん、私かて知らないのよ……」
「はア、さうですか……ぢやア、皆で一つ、そこへ行きませう? 別に大した處ぢやないけど――東京つて、さてとなると、行くところがないんでねえ」

 日曜日。
 朝から蝉が鳴きたててよく晴れた日だつた。周次達は電車で朝早く多摩川へ行つた。ツヤは川床の露出した枯れたやうな川の景色に失望したらしく、
「まア、ここが多摩川でございますか」
 と、何度も同じことを聞いてゐる。三人は堤をおりて、廣い雜草の河原をつつ切つて、船の茶店へはいつて行つた。流石に凉しい風が吹く。四五日前の雨でほんの少し水量がましたのか、澤山泳ぎに來てゐる連中がゐた。
「泳ぎたいなア、ツヤは泳げるの?」
「ええ、私、山國ですから、こんな川なんかなら自信がございます……」
「自信がある、おやおや、ぢやア、海水着を借りてやるから泳いだらいいだらう……」
 後から泳ぎますと云ふので、周次は母とツヤを船へのこして、自分は河上の方へ泳ぎに行つた。向岸は櫻並木で葉櫻には、蝉が燒けつくやうに鳴きたててゐた。
 水は肌に冷く、空の青さが川面に暗く石油を流したやうに寫つてゐる。まるで少年の日にかへつたやうに、周次はときどき耳に唾をつめながら、水の中へぐつともぐつたりした。或る川底では、水流が二つになつてゐたり、ぬめぬめした藻が、晝の陽を寫して、みどりの水面に白い影を寫してゐたりした。むれるやうな草の匂ひがする。――急に身近かに女の笑ひ聲がした。
 周次がざあつと水面へ頭を持ちあげると、赤い海水着を着たツヤが、まるで女學生のやうにハツラツと泳いでゐた。白い美しい肌だつた。腕や脚のふくらみが子供の手足のやうにぶくぶくしてゐる。
「何時來たんだ?」
「いま……」
(いま)と云ふぞんざいな言葉が、周次には可愛かつた。
「うまいんだねえ……」
「だつて、子供の頃、よく泳いだんですもの……」
「ぢやア、もつと河上へ行かう……」
「競爭しませうか?」
「生意氣云つてる……お母さんはどうしてる?」
「晝寢なさいますんですつて、空氣枕を借りて、さしあげときました」
 二人は水流にさからつて、河上へ河上へと泳いで行つた。百舌鳥《もず》のやうなけたたましい鳥が堤の草藪に鳴きたててゐる。蛙も地蟲も鳴いてゐる。――ツヤがぐんと躯を空に向けかへた。疲れたのか、手をやすめたすきに、ぐつと河下へツヤは二三米押し流されてゐる。周次との距離は二三米が四五米になり、何か氣力もなく呆んやり流されてゐるかたちだつた。周次は急いでバツクをしてツヤへ追ひついてゆき、ツヤの躯を岸へ押して行つた。
「どうした?」
「疲れちやつたわ」
「莫迦だなア、無理をするからだよ……」
 周次はぐつたりしてゐるツヤを抱いて、陽が燒けつくやうにあたつてゐる草の上へツヤを抱きあげてやつた。
「疲れたのか?」
「冷いでせう? 水が……」
「うん」
「やつと、何だかほかほかいい氣持ち……」
「唇が紫色してるよ。莫迦な奴だなア、そんなに力まなくつたつて……」
 周次が冷たくなつたツヤの腕をさすつてやると、ツヤはぢつと周次の手を眺めながら大粒な涙をあふれさ
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