母さん、もう寢た?」
「はい、さつきおやすみになりました……お起しいたしませうか?」
「まアいい。二階は蚊帳を吊つたかい?」
「はい、さつきお吊りしておきました」
 周次が二階へ上がつてゆくと、蚊帳の裾をはらふやうな凉しい風が吹いてゐた。ああ吾家の風だな……多摩川ではむしむししてゐたけれど、吾家はこんなに凉しい風が吹く。周次は縁側の手すりへY襯衣《シヤツ》やづぼんをひつかけながら、裸になつていつた。
 月がはつきりしてゐる。小さい月だつたが庭のすずかけの梢の向うにまるで置いたやうに澄んでゐた。
「お浴衣をどうぞ……お風呂はどうなさいますか?」
 東京訛りのある低い聲だつたが、何となく誘はれる聲音だつた。小柄で鼻の横にほくろがあつて、眼の大きい娘だ。
「暑いねえ……」
 周次が暑いねと云ふと、女中のツヤは周次を見上げるやうにして、
「とても暑いんで、私、さつき水道の水を浴びましたの……」
「へえ、そりやあ、でも毒だよ……」
「でも、今日は特別に暑いんでございませうね」
「ツヤは訛りがあるけど、何處だい、國は? 新潟?」
「いいえ信州でございます……」
「へえ、信州、さうかねえ……」
「信州つても小諸なんでございますよ」
「小諸、そりやアいい處だね。――何だつたかな、小諸なる古城のほとり雲白くつて歌があつたな……山國のひとは誠實があつていいよ……」
 周次が蚊帳へはいると、ツヤが枕元へ水を持つて來た。周次は煙草をのまなかつたが、水は好きでよく飮んだ。
「おやすみなさいませ……」
 ツヤが忍び足で階下へ降りて行つた。周次は寢ながら、くみ子との出逢ひの事を考へてゐた。
(何も彼も、最早、遠きひとだよ)
 遠くでサアチライトが光つてゐる。稻妻のやうな青い光芒が、自分の家の屋根までかすめて行つてゐるのか、縁側の向うの空にさつと銀河が走つて行く。

       〇

 二三日して、くみ子から會社へあてて周次へ手紙が來た。

 先日はたいへん有難うございました。
 ああして會つて戴けました事うれしい事でございます。良人が亡くなり、自分一人になつてみると、つくづくこれからの私の生涯が怖ろしいものに思へて參ります。
 姑《しうと》とも折れ合ひませんのは勿論、私がゐては餘計者のやうに云はれますので、私は里へ戻つて參りましたが、ここでも繼母《はゝ》とはうまく參りませんでした。私にはいこひ
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