て行きます。
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 接吻

はじめて接吻を知つた夜
桜がランマンと咲いて

月は赤かつた――

血をすゝるやうな男の唇に
わけても
わけても
月はくるくる舞つてゐた。
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 ロマンチストの言葉

―これでもか!
―まだまだ……
―これでもへこたれないか!
―まだまだ……

貧乏神がうなつて私の肩を叩いてゐる
そこで笑つて私は質屋の門へ
『弱き者よ汝の名は女なり』と大書した。
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 ほがらかなる風景

出帆だ! と吐唸つてゐるやうな百貨店の口
その口つぺたにツバを吐いて
小石のやうに私を蹴つた
ふそろいな流行の旗を立て沢山の不幸人が行くよ。

暮色に包まれた街の音に押されると
私は郊外の白い御飯を思ふ。

艶々とした健康な住家を思ひ浮べると
空高く口笛を吹いて銅貨の音が恋しくなつた
だが過失の卵ばかり生んでゐる
私はメン※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]だと思ふと泣けてしまふ。

だがその小さな汚れた卵はメリケン袋へ入れて
ほら百貨店の口へ
群集の頭へほうり投げてやらう。

くるりと廻転機をまはして私は風のやうに
爽やかに郊外の花畑を吹く。

真実生る楽しみは
嘘を言はないで毎日白い御飯が食べられることだ
ところで芙美子さんは幸福なんだよ
と誰かに一ツ呼びかけてやりたいね。
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いとしのカチユーシヤ
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 いとしのカチユーシヤ

    1
ぐいぐい陽向葵の花は延びて行つた

油陽照りの八月だ!
鼠色の風呂敷を背負つて
私は何度あの隧道を越へたらう。

その頃
釜の底のやうな直方の町に
可愛やカチユーシヤの唄が流行つて来た
炭坑の坑夫達や
トロツコを押す女房連まで
可憐な此唄を愛してゐた。

    2
私は固い玉葱のやうに元気だつた
月の出かけた山脈を背に
せめて淡雪とけぬまに……
炭坑から町までは小一里の道のりだ。

鯉の絵や富士山の絵の一本拾銭の白い扇子は
毎日々々私の根気と平行して売れて行つた
破船のやうな青いペンキ塗りの社宅を越すと
千軒長屋の汚ない坑夫部屋が芋虫のやうに並んでゐて
お上さん達は皆私を待つてゐてくれた。

    3
昼食時になると
炭坑いつぱいに銅羅が鳴り響いて
待ちかまへてゐたやうに
土の中からまるで石ころのやうな人間が飛び出して来る
『オーイ! カチユーシヤ飯にしろい!』
陽向葵はどんな荒れた土の上にも咲いてゐた
自由な空気をいつぱい吸つた坑夫達は
飯を頬ばつたり
女房の鼻をつまんだりして
キビキビした笑ひを投げあつてゐる
油陽照りの八月だ!

    4
直方の町は海鼠のやうに侘しい。

飯をしまつて石油を買ひに出ると
解放された夜の微風が
海月のやうなお月さんをかすめてゐる。
坑夫相手の淫売屋の行灯も
貝のやうに白々とさへて来る。

私の義父や母は
町や村を幾つも幾つも越して
陶器製造所や下駄工場へ
荷車を引いて行商に行つてゐた。

待ち侘びて道へ立つてゐると
軽そうな荷車を引いた義父の提灯が見へる
すると私は犬のやうに走つて
車を押してゐる母へすがりついた。

    5
雨が何日も降り続くと
暑苦しい木賃宿の二階で
永住の地を私達親子はどんなに恋しがつた事だらう。
町へ出ると
雪が降つてゐる停車場で
汽車の窓を叩いてゐる可憐な異人娘の看板を見た
その頃の私の雑記帳は
どの頁もカチユーシヤの顔でいつぱいだつた。

    6
『今日は事務所をぶつこはしに行くんだ。』
或日
口笛を吹き鳴らし吹き鳴らし炭坑へ行くと
あんなに静かだつた坑夫部屋の窓々が
皆殺気立つて
糸巻きのやうに空つぽのトロツコがレールに浮いてゐた。
重たい荷を背負つて隧道を越すと
頬かぶりをした坑夫達が
『おい! カチユーシヤ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
私は十二の少女
カチユーシヤと云はれた事は
お姫様と言われた事より嬉しかつた
『あんやん[#「あんやん」に傍点]しつかりやつておくれつ!』

    7
純情な少女には
あの直情で明るく自由な坑夫達の顔から
正義の微笑を見逃しはしなかつた。
木賃宿へ帰つた私は
髪を二ツに分けてカチユーシヤの髪を結んでみた。
いとしのカチユーシヤよ!

農奴の娘カチユーシヤはあんなに不幸になつてしまつた。
吹雪、シベリヤ、監獄、火酒、ネフリユウドフ
だが何も知らない貧しい少女だつた私は
洋々たる望を抱いて野菜箱の玉葱のやうに
くりくり大きくそだつて行つた。
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 海の見へない街

凍つた空に響くのは
固い銅羅の音だ
街路樹が冬になると
人間の胃袋が汚れて来る。
すりきれた
すりきれた
都会の奈落にひしめきあふロボツト
ロボツトの足につないだプラチナの鎖は
金にあかした電流だ。

波の音が未来も過古もない荒んだ都
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