!』
陽向葵はどんな荒れた土の上にも咲いてゐた
自由な空気をいつぱい吸つた坑夫達は
飯を頬ばつたり
女房の鼻をつまんだりして
キビキビした笑ひを投げあつてゐる
油陽照りの八月だ!

    4
直方の町は海鼠のやうに侘しい。

飯をしまつて石油を買ひに出ると
解放された夜の微風が
海月のやうなお月さんをかすめてゐる。
坑夫相手の淫売屋の行灯も
貝のやうに白々とさへて来る。

私の義父や母は
町や村を幾つも幾つも越して
陶器製造所や下駄工場へ
荷車を引いて行商に行つてゐた。

待ち侘びて道へ立つてゐると
軽そうな荷車を引いた義父の提灯が見へる
すると私は犬のやうに走つて
車を押してゐる母へすがりついた。

    5
雨が何日も降り続くと
暑苦しい木賃宿の二階で
永住の地を私達親子はどんなに恋しがつた事だらう。
町へ出ると
雪が降つてゐる停車場で
汽車の窓を叩いてゐる可憐な異人娘の看板を見た
その頃の私の雑記帳は
どの頁もカチユーシヤの顔でいつぱいだつた。

    6
『今日は事務所をぶつこはしに行くんだ。』
或日
口笛を吹き鳴らし吹き鳴らし炭坑へ行くと
あんなに静かだつた坑夫部屋の窓々が
皆殺気立つて
糸巻きのやうに空つぽのトロツコがレールに浮いてゐた。
重たい荷を背負つて隧道を越すと
頬かぶりをした坑夫達が
『おい! カチユーシヤ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
私は十二の少女
カチユーシヤと云はれた事は
お姫様と言われた事より嬉しかつた
『あんやん[#「あんやん」に傍点]しつかりやつておくれつ!』

    7
純情な少女には
あの直情で明るく自由な坑夫達の顔から
正義の微笑を見逃しはしなかつた。
木賃宿へ帰つた私は
髪を二ツに分けてカチユーシヤの髪を結んでみた。
いとしのカチユーシヤよ!

農奴の娘カチユーシヤはあんなに不幸になつてしまつた。
吹雪、シベリヤ、監獄、火酒、ネフリユウドフ
だが何も知らない貧しい少女だつた私は
洋々たる望を抱いて野菜箱の玉葱のやうに
くりくり大きくそだつて行つた。
[#改ページ]

 海の見へない街

凍つた空に響くのは
固い銅羅の音だ
街路樹が冬になると
人間の胃袋が汚れて来る。
すりきれた
すりきれた
都会の奈落にひしめきあふロボツト
ロボツトの足につないだプラチナの鎖は
金にあかした電流だ。

波の音が未来も過古もない荒んだ都
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