大雨なり。尻からげになって会社へ行く。池田さんは、紺飛白のビロード襟《えり》のかかった雨ゴートを着て来る。仲々意気な雨ゴートなり。今日は弁当なし。昼は雨の中を、六本木まで出て、そば屋でそばを食べて、ふんだんにそばづゆを貰って飲む。どろりとしたそばづゆに、唐辛子を浮かしてすする。
六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と、正木不如丘《まさきふじょきゅう》編輯《へんしゅう》の四谷文学という古雑誌と、藤村の浅草だよりという感想集三冊を八十銭で求める。獄中記はもうぼろぼろなり。
富田さん、麻布《あざぶ》のえち十と云う寄席へ行かないかとみんなを誘うけれど、私は雨なので断って早く家に帰る。沛然《はいぜん》とした雨が終日つづく。この雨があがれば、いよいよ冬の季節にはいるのであろう。足袋を洗い、火鉢にかざしてあぶる。義父も母も雨音をきいてつくねんとしている。
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左右いずれとも決しがたき宿命
悲劇は只の笑い話なり
御返事を待つまでもなく
只今は響々の雨
雨量は桝《ます》ではかりがたく
ただ手をつかねてなりゆき[#「なりゆき」に傍点]を見るのみ。
犠牲は払っているわけではない
不可能の冬の薔薇
孤独と神秘を頼みとする貧乏暮し
人は革命の書をつくり
私はあははと笑う
只、何事もおかしいのだ
真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。
自分の運命を切りひらけと云われたところで
運命は食パンではないのです。
どこからナイフをあててよいのか
人生の狩猟は力のかぎり盛大に
鼻うごめかし
涙をすすり
つばを飲み
脚をふんばりだ。
秩序の目標は青《ブルウ》と黒《ブラック》
仮説の中でひっそりと鼠を食う
その霊妙なる味と芳香
ああロマンスの仮説
誰にも黙殺されて自分の生血をすする
少しずつ少しずつの塩辛い血。
革命とは水っぽい艶々の羊かん
かんてん かんてん かんてんの泥
人間一人が孤独で戦う
群勢はいりません
家柄やお国柄では飯は食えぬ。
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講談を書こうと思い始める。漱石調で水戸黄門。藤村調で唐犬ゴンベエ。鴎外調で佐倉ソウゴロ。はっしはっしと切り結ぶと云う陰惨ごとはどうにも性分にはあわないながら、売りものには花をそえて、変転自在でなければならぬ。芥川の影燈籠《かげどうろう》も一つの魅力なり。
今夜からは、寒いので、親子三人どうしても一つの寝床にはいらねばならぬ。蒲団の後からぬっと脚をさしこむ気がしない。ああ、せめて二枚の蒲団よ、どこからか降って来ないものか。しんしんと冷える。母と義父はもう寝床で背中あわせに高いびきなり。
電気をひくくさげて、ペン先きにたっぷりとインキをふくませて、紙の上にタプタプとおとしてみる。いい考えも湧いて来そうな気がしていながら、仲々神霊は湧いて来ない。
行きくれた、この貧しい老夫婦の寝姿を横にしては胸もつまってしまう。壁ぎわに電気を吊りかえて、小さい茶餉台に向う。
二三頁も詩ばかり書きつらねて、講談は一行も書けない。トタン屋根にそうぞうしくあたる雨脚に、頭はこっぱみじんに破れそうなり。運命尽きぬオタアロオなり。
お前もわしも男運がないと云った母の言葉を想い出して、ふっと「男運」と云う小説らしきものを書いてみたき気持ちがするけれども、それもものうく馬鹿馬鹿しく、やめてしまう。
根が雑草の私生子で、男運などとは口はばたきいい[#「いい」に傍点]なり。伊勢物語ではないけれども、昔男ありけり、性|猛々《たけだけ》しく、乞食を笑いつつ乞食よりもおとれる貧しき生活をすとて、女に自殺せばやと誘う。女、いなとよと叫び、畳をにじりて、ともに添寝せばやと、せめてその事のみに心はぐらかさんものとたくらみ、紐《ひも》と云う紐、刃物と云う刃物とりあげてたくみたり……。
雨は少々響々の鳴りをひそめる。
(八月×日)
高架線の下をくぐる。響々と汽車が北へ走ってゆく。
息せき切って、あの汽車は何処へ行くのかしら、もう、私は厭だ。何もかも厭だ。なまぬるい草いきれのこもった風が吹く。お母さんが腹が痛くなったと云う。堤に登って、暫《しばら》くやすみなさいと云ってみる。征露丸を飲みたいと云うけれど、大宮の町には遠い。
じりじりと陽が照る。
よくもこんなに日が照るものだと思う。何処かで山鳩が啼いている。荷物に凭《もた》れて、暫く休む。今夜は大宮へ泊りたいのだけれども、我まんして帰れば帰れない事もないのだが、何しろ商売がないのには弱ってしまう。眼をつぶっていると、虹《にじ》のような疲れかたで、きりきりと額が暑い。手拭を顔へかぶる。お母さんは、少ししゃがんでいき[#「いき」に傍点]んでみようかと云う。三日もべんぴ[#「べんぴ」に傍点]しているのだそうで、どうも頭が割れるようでのうと云う。
「おおげさな事を云うてるよ。少しそのへんでゆっくりしゃがんでなさい」
「うん、何か紙はないかの」
私は荷物の中から新聞紙を破ってお母さんへ渡した。よわりめに、たたりめ。幽霊みたいな運命の奴にたたられどうしだ。いまに見よれ。そんな運命なんか叩き返してみせる。あんまりいじめるなよ、おい、ぞうもく[#「ぞうもく」に傍点]野郎! 私は青い空に向って男のように雑言を吐いてみる。私は、こんな生きかたは厭なんだよ。みずみずしい風が吹く。それもしみったれて少しずつ吹いている。
お母さんは裾をくるりとまくって、草の中へしゃがんだ。握りこぶし程に小さい。死んじまいなよ。何で生きてるんだよ。何年生きたって同じことだよ。お前はどうだ? 生きていたい。死にたくはござらぬぞ……。少しは色気も吸いたいし、飯もぞんぶんに食いたいのです。
蝉《せみ》が啼《な》きたてている。まあ、こんなに、畑や田んぼが広々としているというのに、誰も昼寝の最中で、行商人なぞはみむきもしない。草に寝転んでいると、躯ごと土の中へ持ってゆかれそうだ。堤の上をまた荷物列車が通る。石材を乗せて走っている。材木も乗っている。東京は大工の書きいれ時だ。あんな石なんかを走らせて、あの石の上に誰が住むのだろう。
寝ながら口笛を吹く。
「まだかね?」
時々、お母さんへ声をかけてやる。人間がしゃがんでいるかっこうというものは、天子様でも淋しいかっこうなんだろう。皇后さまもあんな風におしゃがみなのかねえ。金の箸《はし》で挾《はさ》んで、羽二重の布に包んで、綺麗な水へぽちゃりとやるのかもしれない。
俺とお前は枯れすすき、花の咲かない枯れすすき……。大きい声で唄う。全く惚々《ほれぼれ》するような声なり。おいたわしやのこの人なき真昼。窒息しそうだなぞと云っても、こんなに沢山空気があっては陽気にならざるを得ない。只、空気だけが運命のおめぐみだ。
絶世の美人に生んでくれないのがあなたの失策さ……。何処にでもあるような女なんか、世の中はみむいてもくれないのさ。
「ああ、やっと出た」
「沢山かね?」
「沢山出たぞ」
お母さんは立ちあがって、ゆっくり裾をおろした。
「えらい見晴しがいいのう」
「こんなところへ、小舎をたてて住んだらいいね」
「うん。夜は淋しいぞ……」
用を達して気持ちがいいのか、母は私の横へ来て、セルロイドの歯のかけた櫛《くし》で髪をときつける。
大宮の町へ行って銭湯にはいりたくなった。下駄をぬぐと、鼻緒のところをのこして、象の足のように汚れた足。若い女の足とも思えぬ。爪はのび放題。指のまたにごみ[#「ごみ」に傍点]がたまっている。私も用を達しに行く。股《また》の中へすうすうと風がはいって来る。裸の脚はいい気持ちだ。ふとってふとって、まず、この両の腿《もも》で五|貫匁《かんめ》というところかな。眼の下を自転車が走ってゆく。玄米パンのほやほや売りだ。私が股を拡げているのも気がつかないで、玉転がしのように往かんを走って行ってしまった。草が濡れてゆく。
また、背中を汽車が来る。地響きが足の裏にぶきみだ。
大宮の町へ出たのは三時。どおんと暑い。八百屋の店先きに胡瓜の山。美味《うま》そうなのを二本買って、母と二人で噛《かじ》る。塩があればもっと美味いだろう。二人で、手分けして、両側を軒並みに声をかけて行く。
「クレップの襯衣《シャツ》と、すててこ[#「すててこ」に傍点]はいりませんか、お安くしときますけどね」
何処も返事もしてくれない。母が建具屋さんの店先きに腰を掛けている。何か買ってくれるらしい。三十軒も歩いた。やっと、製材所で見せてみなと云われる。
ねじり鉢巻きの男が三人、汗を拭きながら寄って来る。私は手早く材木の上へ荷物をひろげた。おが屑《くず》の匂いが涼しい。
「大阪から仕入れてるんでとても安いんですよ。輸出の残りなンですよ」
「ねえさんは、美味そうにふとってるな。旦那もちかい?」
私は心のうちでえっへ、と笑う。何持ちなんだか、さっぱり自分で自分の生態がわからないですとね。上下三円五十銭を五十銭もまけさせられて、三組売る。一寸《ちょっと》、神様に感謝する。犬も歩けば棒にあたるだ。また荷を背負って町角を曲る。お母さんは影もかたちも見えぬ。どうせ大宮の駅で逢えばいいのだ。
大宮は少しも面白くない町なり。
東京へ戻ったのが七時頃。雨が降っていた。
ざんざ降りのなかを金魚のようにゆられて川添いに戻る。今日は十五日。豆ローソクのお光りをあげる。蛙《かえる》が啼いている。炭がないので、近所の炭屋で一山二十銭の炭を買って来て飯を焚く。隣りの駄菓子屋の二階の学生が大正琴《たいしょうごと》をかきならしている。何処からともなく蕎麦《そば》のだし[#「だし」に傍点]を煮出している匂いがする。胃袋がぶるぶる顫《ふる》えて仕方がない。この世の中に奇蹟《きせき》はないのだ。皇族に生れて来なかったのが身のあやまり……。私は総理大臣にラブレターを出してみようかと思う。夜、ゴオゴリの鼻を読む。鼻が外套《がいとう》を着てさすらってゆく。そして、しょうことなく、だらしなく読者に媚《こび》を呈して、嘘をとりまぜた考えが虚空に消えてゆく。
苦しめば苦しむほど、生甲斐のある何かだ。吻《ほっ》とする人生を得たいために、時には厭なこともやりかねない。このままな無頓着ではいられない。私にだって、そんな馬鹿馬鹿しい程の時がめぐって来るのだろうか……。このまま何でもなく通りすぎる貧窮のつづきかな。金さえあれば、もっと、どうにかなるのか、浅はかな世の中だ。――その癖、何を考えているのか。自分で自分がさっぱり判らない。正直で誠実で、人情深くて、それが貧乏人のけち[#「けち」に傍点]な根性さね……。何もないから、せめて正直で、おずおずして、銭勘定ばかりしている。隣りの大学生は大正琴を弾きながら、親から金が送って来て、肉屋の女と恋をしている。結構な生れあわせだ。
上月の夜に小菜《こな》の汁に米の飯、べんけいさんは理想が小さい。ねえ、それなのに、私はべんけいさんの理想も途方もないぜいたくに思ってます。他人さまとは縁も由縁《ゆかり》もないのよ。私は私こっきりの生きかた。五貫匁もある重い腿をぶらさげて、時には男の事も考える。誰かいいひとはいないかしら、せめて、十日も満足に食わせてくれる男はいないものかと考える。だって、ねえ、こんなに貧乏して、躯《からだ》じゅうをのみ[#「のみ」に傍点]に食わしているンじゃアやりきれない。全く、私は生れなきゃよかった部類の女なンだから……。私は馬と夫婦になったっていいと思う。全く邪魔っけな重たい躯なンて不用そのもの、鼻だけで歩きたい位のものだ。ゴオゴリもこんな気持ちで長ったらしい小説なんかでかきくどいたのに違いない。
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何時寝るともなく
静かに眠り夢をみる
ただ食べる夢男の夢
特別残酷な笑い事の夢
耳の奥で調子を取る慾
びいんびいんと弓を鳴らす
茶碗つぎの中国人の夢
走って行って追いかえされて
けろりとして烏《からす》のように啼く
太々しいくせに時には泣きたくなる
咬《か》み傷一つ誰にもつけた事のない
よぼよぼの鼠のくりごと
畸形《きけい》で、男と寝たがる意
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