の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転がるより仕ようがない。へへッとにかく、二々が四である。たった一枚のこっている、二銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふは永遠の地獄だ。歩いて池《いけ》の端《はた》から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這《は》うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙が溢《あふ》れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかの飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣き笑いしていると、凸坊が驚いて、玩具《おもちゃ》をほおり出して一緒に泣き出してしまった。
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」
恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが矢のように流れてくる。
「時ちゃんて娘どうして?」
「月初めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……」
「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」
私は赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚を節ちゃんに上げようと思った。節ちゃんの肌が寒そうだった。寝転んで、天井を睨《にら》んでいた恭ちゃんがこの頃つくった詩だと云って、それを大きい声で私に朗読してくれた。激しい飛び散るようなその詩を聞いていると、私一人の飢えるとか飢えないとかの問題が、まるでもう子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的で、私の浅い食慾を嘲笑《ちょうしょう》しているようである。正《まさ》しく盗む事も不道徳ではないと思えた。帰って今夜はいいものを書こう。コウフンしながら、楽しみに私は夜風の冷たい町へ出て行った。
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星がラッパを吹いている。
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿態で
無数の星の冷たさを眺めている。
朝になれば
あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか
誰でもいい!
思想も哲学もけいべつしてしまった、白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせて下さいな
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。
[#ここで字下げ終わり]
家に帰る事が、むしょうに厭になってしまった。人間の生活とは、かくまでも侘しいものなのか! ベンチに下駄をぶらさげたまま横になっていると、星があんまりまぶしい。星は何をして生きているのだろう。
星になった女! 星から生まれた女! 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで馬鹿のように悲しくなるだけだ。夜更け、馬に追いかけられた夢を見た。隣室の唸り声頭痛し。
(二月×日)
朝から雪混りの雨が降っている。寝床で当にならない原稿を書いていると、十子が遊びに来てくれた。
「私、どこへも行く所がなくなったのよ、二三日泊めてくれない?」
羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿態から、押花のような匂いをかいだ。
「二三日泊めることは安いことだけれど、お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」
「カフエーのお客って、みんなジュウ[#「ジュウ」に傍点]みたいね、鼻のさきばかり赤くしていて、真実なんかと云うものは爪の垢《あか》ほどもありやしないんだから……」
「カフエーのお客でなくったって、いま時、物々交換でなくちゃ……この世の中はせち辛いのよ。」
「あんなところで働くのは、体より神経の方が先に参っちゃうわね。」
十子は、帯を昆布《こぶ》巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐり込んで来た。「ああ極楽! 極楽!」すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時《いつ》までもおかしそうに笑っていた。
寒い夜気に当って、硝子《ガラス》窓が音を立てている。家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ているのだ。私はたまらなくなって、飛びおきるなり火鉢にドンドン新聞をまるめて焚《た》いた。
「どう? 少しは暖かい?」
「大丈夫よ……」
十子は蒲団を頬までずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。
午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうようなおいしい気持ちがした。炬燵がなくても、二人で蒲団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう……。
(二月×日)
朝六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹《あんたん》とした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたの泡《あわ》より儚《はか》なく、めんどくさく思えて来る。
「私、つくづく家でも持って落ちつきたくなったのよ、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフエーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの……」
「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといい。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」
階下より部屋代をさいそくされる。カフエー時代に、私に安ものの、ヴァニティケースをくれた男があったけれど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。
「あああの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから……」
ハガキを出してみる、神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。
(二月×日)
思いあまって、夜、森川町の秋声《しゅうせい》氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀《さい》と云う雑誌の同人だと云う、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」
順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭《もた》れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒《えんらくけん》の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしそ[#「しそ」に傍点]の実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私達三人は、小石川の紅梅亭と云う寄席《よせ》に行った。賀々寿々《かがすず》の新内と、三好《さんこう》の酔っぱらいに一寸《ちょっと》涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺《とぎばなし》のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したと云う。三人は細かな雨の降る肴町《さかなまち》の裏通りを歩いていた。
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」
順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋《よせなべ》でもつつきたいと云う。
「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」
秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨《こぬかあめ》を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一|帖《じょう》買ってかえる。――八銭也――体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声あげて嘲笑《あざわら》ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭が弾《はじ》けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡《あわ》をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷包みが部屋の隅に転がっていて、新らしい蛇の目の傘がしっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室では又今夜も秋刀魚《さんま》だ。十ちゃんの羽織を壁にかけていると、十ちゃんが笑いながら梯子《はしご》段を上って来て、「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。皆カフエーの友達である。この女はどこか、英《はなぶさ》百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰っているかの様に大きな髷《まげ》なしの髪をセルロイドの櫛《くし》でときつけながら、「女ばかりもいいものね……時ちゃんにこの間逢ってよ。どうも思わしくないから、又カフエーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」お芳さんが米も煮えているカレーも買ってくれたんだと云って、十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。久し振りに明るい気持ちになる。敷蒲団がせまいので、昼夜帯《ちゅうやおび》をそばに敷いて、私が真中、三人並んで寝る事にした。何だか三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。高いところからおっこちるような夢ばかり見るなり。
(二月×日)
新聞社に原稿をあずけて帰って来ると、ハガキが一枚来ていた。今夜来ると云う、あの男からの速達だった。十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。あんな男に金を貸してくれなんて言えたものではないではないか……、十ちゃんに相談をしてみようかと思う……、妙に胸がさわがしくなってきた。あのヴァニティケースだってほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引かのものなのだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものであろう。路傍の人以外に何でもありはしないではないの。あんなハガキ一本で来ると云う速達をみて気持ち悪し。その人はもうかなりな年であったし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。夜。――霰《あられ》まじりの雪が降っていた。女達はまだ帰って来ない。雪を浴びた林檎《りんご》の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男が来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙《だま》って両手を火鉢にかざしていた。「いい部屋にいるんだね。」この男は、まるで妾《めかけ》の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、「そんなに困っているの……」と云った。
「十円位ならいつでも貸してあげるよ。」
暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。
「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。」
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