うサインを画学生達がしている、すると、この十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ……」
この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。」
だから私は石鹸《せっけん》よりも、このあらいこをもらう事が多い。
「ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を止《よ》してしまいたいのよ。」
火鉢がないので、七輪に折り屑《くず》を燃やして炭をおこす。
「階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾《めかけ》だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら……」
彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくれない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」
「だってうちのパパはね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」
三階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄が目についてくる。
「お姉さん! こんど常盤座《ときわざ》へ行ってみない、三館共通で、朝から見られるわよ、私、歌劇女優になりたくって仕様がないのよ。」
ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先で器用に唄っていた。
夜。
松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
この人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな言いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう言ってあるのに、この人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。
「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」
松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷして溜息《ためいき》をしていた。さくらあらいこの部屋へ行くのは厭《いや》だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛くなってきたので、そっとドアのそばへ行く。ああ十円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その十円がみんな、ミシン屋の小母さんのふところへはいっていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに……。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
松田さんのふところには、剃刀《かみそり》のようなものが見えた。
「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」
こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません、これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」
ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……」
松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子《はしご》段を降りて帰って行ってしまった。――夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。皆、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。
(三月×日)
花屋の菜の花の金色が、硝子《ガラス》窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、産園××とペンキの板がかかっていた。何度も思いあきらめて、結局は産婆にでもなってしまおうと思って、たずねて来た千駄木町の××産園。歪んだ格子を開けると玄関の三畳に、三人ばかりも女が、炬燵《こたつ》にゴロゴロしていた。
「何なの……」
「新聞を見て来たんですけども……助手見習入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら……」
二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当っていた。
「ここは女ばかりてすから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」
このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階下の女達が、主人と言ったのがこの女のひとなのだろうか……高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、階下にいる女達は、皆素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが御都合いかが?」
あぶらのむちむちして白い柔かい手を頬に当てて、私を見ているこの女の眼には、何かキラキラした冷たさがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くの方を見ている。そのはるかなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「ええ今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」
昼。
黒いボアに頬を埋めて女主人が出て行った。小女が台所で玉葱《たまねぎ》を油でいためている。
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!……」
「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」
ジロジロ睨《にら》みあっている瞳《ひとみ》を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、「助手さん! 寒いから汚ないでしょうけど、ここへ来て当りませんか!」と云ってくれた。私は何か底知れない気うつさを感じながら襖《ふすま》をあけると、雑然とした三畳の玄関に、女が六人位も坐っていた。こんなに沢山の妊婦達はいったいどこから来たのかしら……。
「助手さん! 貴方はお国どこです?」
「東京ですの。」
「おやおや、そうでございますの、一寸これゃごまめだわよ。」
女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸《はし》を動かせる。
「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」
女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」
淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も言わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもない風をよそおい、玄関へ出る。
「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの……」
「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」
何と云うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑《こうしょう》しそうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も盗《と》りやしませんよ。」
「だって沈黙《だま》って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」
女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。
「困るのは勝手ですよ。」
戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか……。だが、何年と見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が呪《のろ》わしくさえ思えて、寒い三月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱としょっぺ汁。共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪って暮らしているのかしら……。
(三月×日)
朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ一通あり。――当にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう――。男の親達が、他国者の娘なんか許さないと言ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。
オトウサンガ、キュウシュウヘ、ユクノデ、ワタシハ、オマエノトコロヘ、ユクカモシレマセン、タノシミニ、マッテイナサイ――母よりの手紙。
せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。
ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテイナサイか!
郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて何か探していた。窓を開けると、三月の陽を浴びて、画学生達が相撲を取ったり、壁に凭《もた》れたり、あんなに長閑《のどか》に暮らせたら愉しいだろう、私も絵を描いた事がありますよ、ホラ! ゴオガンだの、ディフィだの、好きなのですけれど、重苦しくなる時があります。ピカソに、マチイス、この人達の絵を見ていると、生きていたいと思います。
「そこのアパートに空間はありませんか?」
新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一せいに男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。
「二間あいてるんですか!」
私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅捜索されているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。
焦心。女は辛し。生きるは辛し。
*
(三月×日)
階下の台所
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