「古創《ふるきず》や恋のマントにむかい酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。
 汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。

(一月×日)
 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満《てんま》行きの電車に乗った。紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんより走る街並を眺めながら私は大阪も面白いと思った。誰も知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木が、腰をもみながら大風にゆれている。
 毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼《あお》い顔をして忙がしく立ち働いていた。随分長い廊下だった。何もかもピカピカと手入れの行きとどいた、大阪人らしいこのみのこぢんまりした座敷に、私は初めて老いた女主人と向きあって坐った。
「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」
 出鱈目《でたらめ》の原籍を東京にしてしまった私は、一寸《ちょっと》どう云っていいのかわからなかった。
「姉がいますから……」
 こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持ちになってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。
「一郎さん!」
 女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……」
 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺《しび》れて来るおもいだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。――天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船が沢山はいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。
 ――何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。

(一月×日)
 駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。
 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔《こ》のように、毛布問屋へ住み込む事になった。
 昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」
 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢《ながじゅばん》が、蒲団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないでピチャピチャ湯音をたてている。あの白い生毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。沈黙《だま》った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ、泪《なみだ》のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は顔をそむけた。

(一月×日)
 毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。
 東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭《ざけ》の一片一片を身をはがして食べるのも甘味《うま》い。
 大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
 雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである蔭《かげ》で、私は人に隠れて思い切り足を掻《か》いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウえらい霜やけやなあ。」
 番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。
「霜やけやったら煙管《きせる》でさすったら一番や。」
 若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。

(二月×日)
「お前は金の性で金は金でも、金|屏風《びょうぶ》の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
 よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。
 只一冊のワイルド・プロフォンディスにも愉しみをかけて読むなり。
 ――私は灰色の十一月の雨の中を嘲《あざけ》り笑うモッブにとり囲まれていた。
 ――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。――夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ。夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、沢山星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぽっちで星を見上げている。

 老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。
 私はしみじみと白粉《おしろい》の匂いをかいだ。眉をひき、唇紅《くちべに》も濃くぬって、私は柱鏡のなかの姿にあどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛《くし》もさして、桃色のてがらもかけて髷《まげ》も結んでみたい。弱きものよ汝《なんじ》の名は女なり、しょせんは世に汚れた私でございます。美しい男はないものか……。なつかしのプロヴァンスの唄でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂|桶《おけ》の中の魚のようにやわらかくくねってみた。

(二月×日)
 街は春の売出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。――女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。
 ――随分苦労なすったんでしょう……という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんのたよりは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。

 お店から一日ひまをもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。――午後六時二十分京都着。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛に蒼白い顔を埋めてむかえに出てくれていた。
「わかった?」
「ふん。」
 二人は沈黙って冷たい手を握りあった。
 私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目を射た。
 椿《つばき》の花のように素敵にいい唇だ。二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京都の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。京極《きょうごく》は昔のままだった。京極の何とかと云う店には、かつて私達の胸をさわがした美しい封筒が飾窓に出ている。だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合せた。私は一人立ちしていても貧乏だし、お夏さんは親のすねかじりで勿論《もちろん》お小遺いもそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。女学生らしいあけっぱなしの気持ちで、二人は帯をゆるめてはお替りをして食べた。
「貴女ぐらい住所の変る人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
 お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。

 円山公園の噴水のそばを二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の鳥辺山《とりべやま》はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね……」
「行ってみましょうか!」
 お夏さんは驚いたように眼をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」
 京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、夜鳥が鳴いている。――下加茂のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い燈火がついていた。門の吊燈籠《つりどうろう》の下をくぐって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。メンドウな話をくどくどするより沈黙っていましょう……お夏さんが火を取りに階下に降りて行くと、私は窓に凭《もた》れて、しみじみと大きいあくびをした。

        *

(七月×日)
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丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。

真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。

そこで私は
貧しい袂《たもと》を胸にあわせて
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました
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