庵や茶碗や、茶呑道具まで揃《そろ》えると、あとは半月分あまりの間代を入れるのがせいいっぱいだった。十三円の金の他愛なさよ。
 寒い息を吐きながら、二人が重い荷物を両方から引っぱって帰った時は、丁度十時近かった。
「一寸! 前のうちねえ、小唄の師匠さんよ、ホラ……いいわね。」

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傘さして
かざすや廓《くるわ》の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫におう江戸の春
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 目と鼻の路地向うの二階屋から、沈んだ三味線の音〆《ねじめ》がきこえている。細目にあけた雨戸の蔭には、お隣の灯の明るい障子のこまかいサンが見える。
「お風呂は明日にして寝ましょう、上蒲団は借りたのかしら?」
 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。――敷蒲団はたいさんと私と一緒の時代のがたいさんが小堀さんのところへお嫁に行ったので残っていた。あの人は鍋《なべ》も庖丁《ほうちょう》も敷蒲団も置いて行ってしまった。一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を私は思い出していた。同居の軍人上りや二階でおしめを洗ったその細君や、人のいい酒屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出
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