「古創《ふるきず》や恋のマントにむかい酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。
 汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。

(一月×日)
 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満《てんま》行
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