ヤノをならわせてくれたのよ。ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾き。そいつにすっかり欺《だま》されてしまって、私子供を孕《はら》んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと判っていたから云ってやったわ。そしたら、そいつの言い分がいいじゃないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私|口惜《くや》しくて、そんな奴の子供なんか産んじゃ大変だと思って辛子《からし》を茶碗一杯といて呑んだわよふふふ、どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバ[#「ツバ」に傍点]を引っかけてやるつもりよ。」
「まあ……」
「えらいね、あんたは……」
 仲間らしい讃辞がしばし止《や》まなかった。お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背中にかけてやっていた。私は息づまるような切なさで感心している。弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき裏切った男の頭を考えていた。お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいいって云う事が何の気安めになるだろうか――。

(十月×日)
 偶《ふ》と目を覚ますと、俊ちゃんはもう支度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」
 湯殿
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