食堂《ホール》の中を片づけてしまって初めて自分の体になったような気がした。真実《ほんとう》にどうにかしなければならぬ。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋に帰るのだけれども、一日中立ってばかりいるので、疲れて夢も見ずにすぐ寝てしまうのだ。淋しい。ほんとにつまらない。住み込みは辛いと思う。その内、通いにするように部屋を探したいと思うけれども何分出る事も出来ない。夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと眼を開けていると、溝《どぶ》の処だろう虫が鳴いている。
冷たい涙が腑甲斐《ふがい》なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太《からふと》の女や、金沢の女達と三人枕を並べているのが、私には何だか小店に曝《さら》された茄子《なす》のようで侘しかった。
「虫が鳴いてるわよ。」そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいわね。」とお秋さんが云う。
梯子段の下に枕をしていたお俊さんまでが、「へん、あの人でも思い出したかい……」と云った。――皆淋しいお山の閑古鳥《かんこどり》だ。うすら寒い秋の風が蚊帳の裾を吹いた。十二時だ。
(十月×日)
少しばかりのお小遣いが貯《たま》ったので、久し振りに日本髪に結ってみる。日本髪はいいな。キリリと元結を締めてもらうと眉毛が引きしまって。たっぷりと水を含ませた鬢出《びんだ》しで前髪をかき上げると、ふっさりと前髪は額に垂れて、違った人のように私も美しくなっている。鏡に色目をつかったって、鏡が惚《ほ》れてくれるばかり。こんなに綺麗に髪が結えた日には、何処《どこ》かへ行きたいと思う。汽車に乗って遠くへ遠くへ行ってみたいと思う。
隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって田舎へ出す手紙の中に入れておいた。喜ぶだろうと思う。手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの。
ドラ焼を買って皆と食べた。
今日はひどい嵐なり。雨がとてもよく降っている。こんな日は淋しい。足が石のように固く冷える。
(十月×日)
静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
金庫の前に寝ている年取った主人が、この間来た俊ちゃんに話しかけていた。寝ながら他人の話を聞くのも面白いものだ。
「私でしか……樺太です。豊原《とよはら》って御存知でしか?」
「へえ、樺太から? お前一人で来たのかね?」
「ええ……」
「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」
「長い事、函館の青柳町にもいた事があります。」
「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛《なまり》がありますもの。」
啄木の歌を思い出して私は俊ちゃんが好きになった。
[#ここから2字下げ]
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
[#ここで字下げ終わり]
いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。真実《ほんとう》に何だか人生も楽しいもののように思えて来た。皆いい人達ばかりである。初秋だ、うすら冷たい風が吹いている。侘しいなりにも何だか生きたい情熱が燃えて来るなり。
(十月×日)
お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。
客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配しています。
と思う。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」
三年もこの家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のききかたで私をさそってくれた。
「ええ……行きますとも、何時《いつ》でも泊めてくれて?」
私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。
「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎《あなた》に惚れました、一生捨てないでねなんて馬鹿らしい事は真平だよ。こんな世の中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、私に子供を生ませるとぷい[#「ぷい」に傍点]さ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールだよ、いい面の皮さ……馬鹿馬鹿しい浮世じゃないの? 今の世は真心なんてものは薬にしたくもないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからなのさ……」
お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。
(十月×日)
ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風器の台
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