酒場ではお上さんが、一本のキング・オブ・キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、氷を沢山呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。
「一寸! ラヴレーターって、どんな書出しがいいの……」
 八重ちゃんが真黒な眼をクルクルさせて赤い唇を鳴らしている。秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の田舎女達が、店のテーブルを囲んで、遠い古里に手紙を書いているのだ。
 今日は街に出てメリンスの帯を一本買うなり。一円二銭――八尺求める――。何か落ちつける職業はないものかと、新聞の案内欄を見てみるけれどいい処もない。いつもの医専の学生の群がはいって来る。ハツラツとした男の体臭が汐《しお》のように部屋に流れて来て、学生好きの、八重ちゃんは、書きかけのラヴレーターをしまって、両手で乳をおさえてしな[#「しな」に傍点]をつくっている。
 二階では由ちゃんが、サガレン時代の業《ごう》だと云って、私に見られたはずかしさに、プンプン匂う薬をしまってゴロリと寝ころんでいた。
「世の中は面白くないね。」
「ちっともね……」
 私はお由さんの白い肌を見ていると、妙に悩ましい気持ちだった。
「私は、これでも子供を二人も産んだのよ。」
 お由さんはハルピンのホテルの地下室で生れたのを振り出しに、色んなところを歩いて来たらしい。子供は朝鮮のお母さんにあずけて、新らしい男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフエー生活だそうだ。
「着物が一二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかしらと思っているのよ。」
「こんなこと、いつまでもやる仕事じゃないわね、体がチャチになってよ。」
 春夫の東窓残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言眼を射た優しい柔かい言葉があった。何もかも夢のように……、落ちついてみたいものなり。キハツで紫の衿《えり》をふきながら、「ゆみちゃん! どこへ行ってもたより[#「たより」に傍点]は頂戴ね。」と、由ちゃんが涙っぽく私へこんなことを云っている。何でもかでも夢のようにね……。
「そんなほん[#「ほん」に傍点]面白いの。」
「うん、ちっとも。」
「いいほん[#「ほん」に傍点]じゃないの……私高橋おでんの小説読んだわ。」
「こんなほん[#「ほん」に傍点]なんか、自分が憂鬱になるきりよ。」

(八月×日)
 よそへ行って外のカフエーでも探してみようかと思う日もある。まるでアヘンでも吸っているように、ずるずるとこの仕事に溺れて行く事が悲しい。毎日雨が降っている。
 ――ここに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間が如何《いか》なる道によって進むか。夢想! 美の小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的に創造の道によってかは、勿論《もちろん》、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵《しんえん》が彼にはより少く絶望的に思われる。けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつつある栄養の緊張力に関係する。緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望《ぎょうぼう》を持つ――女達が風呂に出はらった後の昼間の女給部屋で、ルナチャルスキイの「実証美学の基礎」を読んでいると、こんな事が書いてあった。――ああどうにも動きのとれない今の生活と、感情の落ちつきなさが、私を苦しめるなり。私は暗くなってしまう。勉強をしたいと思うあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を駈《はし》りまわっている。みきわめのつかない生活、死ぬるか生きるかの二ツの道……。夜になれば、白人国に買われた土人のような淋しさで埓《らち》もない唄をうたっている。メリンスの着物は汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタ[#「フタ」に傍点]もないこの暑さでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで生きているより仕方もない。
 何の条件もなく、一カ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。

        *

(十月×日)
 一尺四方の四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女なり。ああ厭になってしまう、なぜか人が恋しい。――どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいい私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようなものだ。

(十月×日)
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