んかの一つもきりたいようないい気持ちで戸外へ出る。広い道をふらふらと歩く。二天門の方へまわってみる。ごたごたと相変らずの人の波だ。裸の人形を売っている露店でしばらく人形を眺めてみる。やっぱりきりょうのいいのから売れてゆく。昼間のネオンサインがうららかな昼の光りに淡く光っている。鐘つき堂の所から公園のなかへぶらぶら歩く。
誰一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに、なつかしい浅草の匂い。淡嶋《あわしま》さまの、小さい池の上の橋のところに出て少し休む。鳩が群れている。線香屋さんの線香の匂いがする。ああ何処を向いても他国のお方だ。埃《ほこり》っぽい風が吹いている。あらゆる音がジンタのように聞えて来る。
池の石の上に、甲羅の乾いた亀がもそもそと歩いている。いまにいいことがあるぞと云ってくれているのではないかと、にゅっと首をあげている亀の表情をじいっとあきずに眺めている。少しはねえ、いいことがあるように、私のことも考えて下さいなと亀に話しかけてみる。慾ばってはいかん。はい、承知いたしました。何が慾しい? はい、お金がどっさりほしいです。毎日心配なく御飯がたべられるほどお金がほしいです。男はいらぬか? はい、男はいりません。当分いりません。それは本当かね? はい、本当の事でございます。男はやっかいなものです。辛くて一緒にはおられません。私は何をしたら一番いいでしょう? それは知らん。あんまり薄情な事は云わないで下さい。――亀と話をしているのは面白い。一人で私はぶつくさと亀と話をしている。
足もとの小石を拾って、汚れた池へどぽんと投げる。亀の首が縮む。その縮みかたが何だかいやらしい。わあっと笑い出したくなって来る。
こんなに賑やかなところにいて、亀も私も到って孤独だ。かんのん様が何だよと呶鳴《どな》りたくなる。巨きなお堂のなかへ土足でがたがたと這入る。暗い奥に燈がいさり火のようにゆらゆらと光っている。
夕方新宿へ帰る。行くところもないので店へ戻る。二階で勝ちゃんが大きな声で浪花節《なにわぶし》を歌っている。電気もつけないで薄暗い所で歌をうたっている。あああれがけいせいけいこくと云い、金さえあれば自由になるものか、わしもやっぱり人の子じゃア……。気持ちの悪い声なり。
疲れたので、毛布を出して横になる。
ああこれでは一生このままで終ってしまう。どうにもならぬ。ぱっとした事はないのだろうか……。何かがバクハツするような事はないのでしょうかね、神様……。毛布が馬鹿に人間臭い。暗い戸外を、「別嬪《べっぴん》さん」と男がどこかの女を呼んでいる声がしている。今日は主人夫婦は子供を連れて成田さんにお参り。おかみさんのおふくろさんが留守番に来ている。コックの大さんと云う爺さんが、私達にいりめしをつくってくれている。
勝ちゃんが階下からウイスキーを盗んで来た。私製ジョニオーカア。暗がりで二人でウイスキーをビンの口から飲みあう。一丈位も躯がのびたような気がする。文明人のする事ではないでしょうけれど、まあ、この女達を哀れにおぼしめして下さい。私は酔うと鼻血の出るような勇ましい気になる。
*
(六月×日)
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肥満《ふと》った月が消えた
悪魔にさらわれて行った
帽子も脱がずにみんな空を見た。
指をなめる者
パイプを咥《くわ》えるもの
声を挙げる子供たち
暗い空に風が唸る。
咽喉笛《のどぶえ》に孤独の咳《せき》が鳴る
鍛冶屋《かじや》が火を燃やす
月は何処かへ消えて行った。
匙《さじ》のような霰《あられ》が降る
啀《いが》みあいが始まる。
賭《か》け金で月を探しに行く
何処かの煖炉《だんろ》に月が放り込まれた
人々はそう云って騒ぐ。
そうして、何時の間にか
人間どもは月も忘れて生きている。
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スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学。ラブレエの恋文。みんな人生への断り状だ。生きていることが恥かしいのだ。労働は神聖なり、誰かがおだてて貧乏人にこんな美名をなすりつける。鼻もちもならぬほど、貧民を軽蔑《けいべつ》し、無学文盲をあなどりたい為《ため》に、いろんな規則ががんじがらめに製造される。貧民は生れながらの私生児のようなものに落ちこんで行く。
幸福の馬車は、いちはやくこうした徒輩の間を一目散に走り去ってゆく。みんな見送る。ただ、ぼんやりとわめき散らす。月が盗まれたような気がして来る。虚空に浮いている幸福な金貨のような月の光りは消えた。月さえも万人の所有物ではないのだ。――私は貴族は大嫌い。皮膚に弾力のない不具者だ。
今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤《つじじゅん》の禿頭《はげあたま》に口紅がついている。浅草のオペラ館で、木村時子につけて貰った紅だと御自慢。集ま
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