れないのだもの……。もう、私の働いている場所へ来ないで下さいねと云うと、野村さんは灰皿を取って、私の胸へ投げつけた。眼にも口にも灰がはいる。肺の骨がピシッと折れたような気がした。扉口へ逃げると、野村さんは私の頭の毛をつかんで畳へ放り出した。私は死んだ真似をしていようかと思った。眼が吊《つ》りあがって、猫にくいつかれた鼠のような気がした。何か二人の間にはまちがい事があるのだと思いながら、男と女の引力がつながっている。腹の上を何度か足で蹴られた。もう、金なぞビタ一文も持って来るものかと思う。
千葉亀雄さんが親類だと云うのだから、あのひとに話してみようかと思ったりする。私は動けないので、羽織を足へかけて海老《えび》のように曲って眠る。
夕方になって眼が覚める。あのひとはむこうむきで机へ向いている。何か書いている。金だらいの手拭を取ると手拭がかちかちに凍っている。呆《ぼ》んやりと裸電気を見ていると、お母さんのところへ帰りたくなった。
肺の骨がどうにも痛い。灰皿は破れたまま散らかっている。
早く店へ戻りたいとも思わない。このまま朝まで眠っていたいのだ。寒さで、躯がぶるぶる震えている。風邪を引いたのか、馬鹿に頭の芯《しん》がずきずきと音をたてている。
そっと起きて髪を結いなおす。
その夜、起きられないので、財布を出して、あのひとに、カレーなんばんを二つ取って来て貰って二人で食べた。何も話がないので二人で仲よく寝てしまう。
(二月×日)
朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。寝床のなかで、いつまでもあれこれと考えている。野村さんは紅い唇をして眠っている。肺病やみの唇だ。肺病は馬の糞《ふん》を煮〆《にしめ》た汁がいいと誰かに聞いた事がある。このひとの気性の荒さは、肺病のせいなのだと思うとぞっとして来る。多摩川で一度血を吐いた事がある。一つしかない手拭を、私が熱湯で消毒したのを見て、野村さんはとても怒った事がある。
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。誰かの句をふっと思い出した。何となく、外国へ行ってみたくなる。インドのような暑い国へ行ってみたいのだ。タゴールと云う詩人もインドのひとだそうだ。
野村さんは、通いにして、また一緒に住めばいいと云ってくれたのだけれど、私は心のなかにそんな気のない事をはっきりと自覚している。私は殴られる相手として薄馬鹿な顔をしているのは沢山だ。楽天家ぶっているのには閉口。あなたが、殴りさえしなければ戻って来たいのよと嘘を云う。
店へ戻ったのがお昼。がんもどきの煮つけと冷飯。息をもつかずのど[#「のど」に傍点]を通る。近所の薬屋で桜膏《さくらこう》を買って来てこめかみ[#「こめかみ」に傍点]へ張る。胸の骨が痛いので、胸にも桜膏をいく枚も張りつける。
[#ここから2字下げ]
あわれこもりいのヒヤシンス
むらさきのはなびら
うす紅のべん
におう におう
尼ぼとけの肩。
うなばらにただよう屍
根株のひげ根の波よせて
におう におう
汐《しお》ざいの遠鳴り
波がしらみな北にむく。
伏せていこうはは
屍の炬燵《こたつ》
ほのかににおう
うつつ世のつかれ念仏
あくびまじりの或日の太陽。
[#ここで字下げ終わり]
自由に作曲が出来たら、こんな意味をうたいたい。
(三月×日)
うららかな好晴なり。ヨシツネさんを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂。一銭じょうきに乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、木裂《こっぱ》、猫のふやけたのも流れている。河向うの大きい煙突からもくもくと煙が立っている。駒形橋のそばのホウリネス教会。あああすこはやっぱり素通りで、ヨシツネさんには逢う気もなく、どじょう屋にはいって、真黒い下足の木札を握る。籐畳《とうだたみ》に並んだ長いちゃぶ台と、木綿の薄べったい座蒲団。やながわに酒を一本つけて貰う。隣りの鳥打帽子の番頭風な男がびっくりした顔をしている。若い女が真昼に酒を飲むなぞとは妙な事でございましょうか? それにはそれなりの事情があるのでございます。久米《くめ》の平内《へいない》様は縁切りのかみさんじゃなかったかしら……。酒を飲みながらふっとそんな事を思う。鳥打帽子の男、「いい気持ちそうだね」と笑いかける。私も笑う。
ささくれた角帯に、クリップで小さい万年筆の頭がのぞいている。その男もお酒を飲んでいる。店さきにずらりと自転車が並び、だんだん客がふえて来る。まるで天井にかげろうがまっているような煙草のもうもうとした煙。少しの酒にいい気持ちになって来る。どじょう鍋になまずのみそ椀、香のものに御飯、それに酒が一本で八十銭。何が何だってとた
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