ィンプル・ハンドだと先生に云われた。笑った手。私の手は今だに笑っている。
山出しの女中さんよろしくの姿では誰も相手にしようがあるまい。玉の井で前借もむつかしいに違いあるまい。
まず、おっかさんを宿へ残して、角筈《つのはず》を振り出しに朝の泥んこ道を、カフエーからカフエーへ歩いてみる。朝のカフエーの裏口は汚なくて哀しくなってしまう。勇気を出せ、勇気を出せと唸ってみたところでどうしようもない。金の星と云う店に勤める事にする。金の星とは名ばかり、地獄の星とでも云いたいような貧弱な店。まず、ここから花火をどおんと打ちあげる事につかまつる。お女郎屋が軒なみなので、客は相当ある由なり。台所で女の子が、私に塩せんべいを一枚くれた。ふっと涙があふれそうになる。ほてい屋で、十五銭の足袋を一足買う。
宿賃は一人三十五銭。当分は二人七十銭の先払いでこの宿が安住の場所。本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前取っておっかさんと私の昼飯とする。
夕方、金の星に御出勤。女は私を入れて三人。私が一番若い。ネフリュウドフはみつからぬものかと思う。心配なしに表情だけで「ねえ」と云ってみなければならぬとなれば、少々下ぶくれであっても、ひとかどの意地の悪さでチップをかせがねばならぬ。ああ、チップとは何でしょうかね。お乞食さんと少しも変らない。全身全力で「ねえ」と云わなければならぬ商売。ものを書いてたつき[#「たつき」に傍点]となるなぞ、ああ遠い。もう眼がみえませぬと臭い便所の中で舌を出してやる。ものを書くなぞと云う希望なぞはない。何も出来っこはない。詩を書くなぞとは愚の骨頂だ。ボオドレエルが何だって? ハイネのぶわぶわネクタイは飾りものなのよ。全く、あのひと達は何で食べていたのかしら……。
ヌウザボン、ブウサベエだ。パルドン、ムッシュウ。ちょいとごめんなさいねと云う言葉だそうですね。
おかみさんに、羽織をかた[#「かた」に傍点]にして二円借りる。一円五十銭をおっかさんにやって、電車道の富の湯へ行く。大きい鏡にうつったところはまず健康児。少しも大人らしくない、くりくりとした桃色の裸。首から上だけがお釜《かま》をかぶったようないでたち。女給さんがうようよとはいっている。しゃべっている。三助が忙《せ》わしそうに女の肩をぽんぽんと叩いている。滝のあるペンキ絵。白粉《おしろい》や産院の広告が眼につく。何日ぶりで湯にはいったのかとおかしくなる。
街は雪解けで仄明《ほのあか》るい街のネオンサインが間抜けてみえる。かりの名をまず淀君《よどぎみ》としようか。蝙蝠《こうもり》のお安さんとしようか……。左団次の桐一葉《きりひとは》の舞台が瞼《まぶた》に浮かぶ。ああ東京はいろんな事があったと思う……。辛いことばかりのくせに、辛い事は倖せな事にはみんな他愛なく忘れてしまう。どんどろ大師の弓ともじって、弓子さんと云う名にする。弓は固くてせめてもの慰めだ。はっしとまと[#「まと」に傍点]を射て下さい。
わけのわからぬ客を相手に、二円の収入あり。まず大慶至極。泥んこ道の夜店の古本屋で、チエホフとトルストイの回想を五十銭で買う。大正十三年三月十八日印刷。ああいつになったら、私もこんな本がつくれるかしら……。
≪誰でも物を書いた時は、始めと終りとを削らなければならないと思いますよ。そこで、我々小説家は、嘘を云い勝ちですからね。そして短かく書かなければいけません。出来るだけ短かく……≫
チエホフがこんな事を云っている。
十一時頃客が一寸《ちょっと》途絶える。店の隅っこで本を読んでいると、勝美さんと云う大きい女が、「あんた近眼なのね」と云った。もう一人はお信さん。子供が二人もあって、通いなのだそうだ。勝美さんは色が黒いので、オキシフルを綿につけては顔を拭いている。私は白粉をつけない事にする。顔をいじくる気はもうとうないのだ。勝美さんだけが住み込みでいる。朝、塩せんべいをくれた女の子が、メリンスのちゃんちゃんこを着て店へ出て来た。痩せた病身な子供だ。
明日は太宗寺にサーカスがあるから一緒に行こうと私に云う。ろくろ首のみせものもあるのだそうだ。
旭町へ戻ったのが二時。くたくたに疲れる。今夜も同じ顔ぶれ。
何だか少しも眠れないので、豆ランプを枕もとに置いて読書。
(一月×日)
まア驚いた。トルストイと云う作家は、伯爵だったンだ。――いわゆるトルストイの無政府主義と呼ばれるものは、主要的にかつ基礎的に、我々スラヴの反国家主義を表現しているものであり、それは真実の国民的特徴であり、往時から我々の肉の中に沁《し》みこみ、漂浪的に散ろうとする我々の慾望でもあります。――ロシヤの歴史の雄なる作家トルストイが、伯爵さまであったとは今日の日まで私は知らなかった。伯爵さまでものたれ死にをす
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