し》の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫《はんらん》している。爪の垢《あか》ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼《まぶた》が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。

[#ここから2字下げ]
古里の厩《うまや》は遠く去った
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった

朧《おぼろ》な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。
[#ここで字下げ終わり]

 一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺《おぼ》れている私です。
 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤《すす》けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
「姐御《あねご》はこっちに腰掛けたら……」
 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷《まるまげ》に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇《あだ》めいた匂いがして窶《やつ》れた河合武雄と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛《か》んでいた。
「ああとてもひでえ目にあったぜ。」
 目玉のグリグリした小さい方が、ひとわたり周囲をみまわして大きい方につぶやくと、汽車は逆もどりしながら、横川の駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行らしいのだ。向うの男と女は、時々思い出したようにボソボソ話しあっていた。「アレ! 何だね、俺ァ気味が悪いでッ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を追うと、芸人達の持ちものである網棚のバスケットから、黒ずんだ赤い血のようなものがボトボトしたたりこぼれていた。
「血じゃねえかね!」
「旅のお方! お前さんのバスケットじゃねえかね。」
 背中あわせの、芸人の男女に、田舎女の亭主らしいのが、大きい声で呶鳴《どな》ると、ボンヤリと当もなく窓を見ていた男と女は、あたふたと、恐れ入りながら、バスケットを降ろして蓋をあけている。――ここにもこれだけの生活がある。私は頬の上に何か血の気の去るのを感じる思いだった。そのバスケットの中には、ふちのかけた茶碗や、朱のはげた鏡や、白粉《おしろい》や櫛《くし》や、ソースびんが雑然と入れてあった。
「ソースの栓が抜けたんですわ……」
 女はそう一人ごとを言いながら、自分の白い手の甲にみみずのように流れているソースの滴をなめた。その侘し気なバスケット物語が、トヤについたこの人達の幾日かの生活をものがたっている。女のひとはバスケットを棚へ上げると、あとは又汽車の轟々《ごうごう》たる音である。私の前の弟子らしい男達は、眠ったような顔をしていた。
「ああ俺アつまらねえ、東京へ帰って、いまさんの座にでもへえりていや、いつまでこうしてたって、寒くなるんだしなア……」
 弟子たちのこの話が耳にはいったのか、紺縮みの男は、キラリと眼をそらすと、
「オイ! たんちゃん、横川へついたら、電報一ツたのんだぜ。」
 と、云った。四人共白けている。夫婦でもなさそうな二人のものの言いぶりに、私はこの男と女が妙に胸に残っていた。
 夜。
 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。嵐もよいの湫々《しゅうしゅう》とした潮風が強く吹いていて、あんなにあこがれて来た私の港の夢はこっぱみじんに叩きこわされてしまった。こんなところも各自の生活で忙がしそうだ。仕方がないので私は駅の前の旅館へひきかえす。硝子戸に、いかやと書いてあった。

(九月×日)
 階下の廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群がさわいでいた。
 洗面所で顔を洗っていると、
前へ 次へ
全133ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング