時ちゃんが、ソーダ水でジュウジュウ口をすすぎながら呶鳴《どな》っていた。お上さんは病気で二階に寝ている。何時《いつ》も女給達の生血を絞っているからろくな事がないのよ。しょっちゅう病気してるじゃないの……こう言ってお由さんはお上さんの病気を気味良がっていた。

(六月×日)
 お上さんはいよいよ入院してしまった。出前持ちのカンちゃんが病院へ行って帰ってこないので、時ちゃんが自転車で出前を持って行く。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出る程おかしかった。とにかく、この女は自分の美しさをよく知っているからとても面白い。――夕方風呂から帰って着物をきかえていると、素硝子の一番てっぺんに星が一つチカチカ光っていた。ああ久しく私は夜明けと云うものを見ないけれど、田舎の朝空がみたいものだ。表に盛塩《もりじお》してレコードをかけていると、風呂から女達が順々に帰って来る。
「もうそろそろ自称飛行家が来る頃じゃないの……」
 この自称飛行家は奇妙な事に支那そば一杯と、老酒《ラオチュー》いっぱいで四五時間も駄法螺《だぼら》を吹いて一円のチップをおいて帰って行く。別に御しゅうしんの女もなさそうだ。
 三番目。
 私の番に五人連のトルコ人がはいって来た。ビールを一ダース持って来させると、順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな呑みぶりである。白い風呂敷包みの中から、まるでトランクのように大きい風琴《ふうきん》を出すと、風琴の紐《ひも》を肩にかけて鳴らし出す。秋の山の風でも聞いているような、風琴の音色、皆珍らしがってみていた。ボクノヨブコエワスレタカ。何だと思ったらかごの鳥の唄だった。帽子の下に、もう一つトルコ帽をかぶって、仲々意気な姿だった。
「ニカイ アガリマショウ。」
 若いトルコ人が私をひざに抱くと、二階をさかんに指差している。
「ニカイノ アルトコロコノヨコチョウデス。」
「ヨコチョウ? ワカラナイ。」
 私達を淫売婦とでもまちがえているらしい。
「ワタシタチ トケイヤ。」
 若いのが遠い国で写したのか、珍らしい樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれるなり。
「ニカイ アガリマショウ、ワタシ アヤシクナイ。」
「ニカイアリマセン。ミンナ カヨイデス。」
「ニカイ アリマセン?」
 またビール一ダースの追加、一人がコールドビーフを註文《ちゅうもん》すると、お由さんが気に入っていたのか、何かしきりに皿を指さしている。
「困ったわ、私英語なんか知らないんですもの、ゆみちゃん何を言ってんのか聞いてみてよ……」
「あの、飛行機屋さんにおききなさいよ、知ってるかも知れないわ。」
「冗談じゃない、発音がちがうから判らないよ。」
「あら飛行機屋さんにも判らないの、困っちゃうわね。」
「ソースじゃなさそうね。」
 何だか辛子《からし》のようにも思えるんだけれど、生憎《あいにく》、からしかと訊《き》く事を知らない私は、
「エロウ・パウダ?」
 顔から火の出る思いで聞いてみた。
「オオエス! エス!」
 辛子をキュウキュウこねて持って行くと、みんな手の指を鳴らして喜んでいた。
 自称飛行家はコソコソ帰っていった。
「トルコの天子さん何て言うの?」
 時ちゃんが、エロウ・パウダ氏にもたれて聞いている。
「テンシサンなんて判るもんですか。」
「そう、私はこの人好きだけど通じなきゃ仕方がないわ。」
 酒がまわったのか、風琴は遠い郷愁を鳴らしている。ニカイ アガリマショウの男は、盛んに私にウインクしていた。日本人とよく似た人種だと思う、トルコってどんなところだろう。私は笑いながら聞いた。
「アンタの名前、ケマルパシャ?」
 五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首を振っていた。

        *

(九月×日)
 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津《なおえつ》と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなってお母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!
 富士山――暴風雨
 停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍《とうもろこ
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