ない程心配になるのかも知れない。反感がおきる程、先生が赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するものではないと思った。
うまごやし[#「うまごやし」に傍点]にだって、可憐《かれん》な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。奥さんは野そだちな人だけれど、眠ったようなひとで、この家では私は一番好きなひとである。
(十二月×日)
ひま[#「ひま」に傍点]が出るなり。
別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、冷たい血があがるような思いだった。――ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、何だかザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに蒼《あお》い瓦葺《かわらぶ》きの文化住宅の貸家があったので這入ってみる。庭が広くて、ガラス窓が十二月の風に磨いたように冷たく光っていた。
疲れて眠たくなっていたので、休んで行きたい気持ちなり。勝手口を開けてみると、錆《さ》びた鑵詰《かんづめ》のかんから[#「かんから」に傍点]がゴロゴロ散らかっていて、座敷の畳が泥で汚れていた。昼間の空家は淋しいものだ。薄い人の影があそこにもここにもたたずんでいるようで、寒さがしみじみとこたえて来る。どこへ行こうと云うあてもないのだ。二円ではどうにもならない。はばかりから出て来ると、荒れ果てた縁側のそばへ狐のような目をした犬がじっと見ていた。
「何でもないんだ、何でもありやしないんだよ。」
言いきかせるつもりで、私は縁側の上へきっとつったっていた。
(どうしようかなア……、どうにもならないじゃないのッ!)
夜。
新宿の旭町《あさひまち》の木賃宿へ泊った。石崖《いしがけ》の下の雪どけで、道が餡《あん》このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。
[#ここから2字下げ]
みんな嘘っぱちばかりの世界だった
甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく
百貨店《マーケット》の屋上のように寥々《りょうりょう》とした全生活を振り捨てて
私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめてみた
真夜中に煤けた障子を明けると
こんなところにも空があって月がおどけていた。
みなさまさよなら!
私は歪《ゆが》んだサイコロになってまた逆もどり
ここは木賃宿の屋根裏です
私は堆積《たいせき》された旅愁をつかんで
飄々《ひょうひょう》と風に吹かれていた。
[#ここで字下げ終わり]
夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。
「済みませんが……」
そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返《いちょうがえ》しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。
「オイ! お前、おきろ!」
やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々《ばくばく》とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。
「今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……」
薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗《な》めながら、私の枕元に立っているのだ。
「お前はあの女と知合いか?」
「いいえ、不意にはいって来たんですよ。」
クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがかりは持たなかっただろう――。刑事が出て行くと、私は伸々と手足をのばして枕の下に入れてある財布にさわってみた。残金は一円六十五銭也。月が風に吹かれているようで、歪んだ高い窓から色々な光の虹《にじ》が私には見えてくる。――ピエロは高いところから飛び降りる事は上手だけれど、飛び上って見せる芸当は容易じゃない、だが何とかなるだろう、食えないと云うことはないだろう……。
(十二月×日)
朝、青梅《おうめ》街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、
「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
労働者は急にニコニコしてバンコ[#「バンコ」に傍点]へ腰をかけた。
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