てやった。堤の上を冷たい風が吹いて行く。茫々とした二人の鮮人の頭の上に星が光っていて、妙にガクガク私たちは慄《ふる》えていたが、二人共一円もらうと、私達の車の後を押して長い事沈黙って町までついて来た。
 しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へ田地を売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、唐津《からつ》物の糶売《せりう》りをしてみたい、これが唯一の目的であった。何によらず炭坑街で、てっとり[#「てっとり」に傍点]早く売れるものは、食物である。母のバナナと、私のアンパンは、雨が降りさえしなければ、二人の食べる位は売れて行った。馬屋の払いは月二円二十銭で、今は母も家を一軒借りるよりこの方が楽だと云っていた。だが、どこまで行ってもみじめすぎる私達である。秋になると、神経痛で、母は何日も商売を休むし、父は田地を売ってたった四十円の金しか持って来なかった。父はその金で、唐津焼を仕入れると、佐世保へ一人で働きに行ってしまった。
「じき二人は呼ぶけんのう……」
 こう云って、父は陽に焼けた厚司《あつし》一枚で汽車に乗って行った。私は一日も休めないアンパンの行商である。雨が降ると、直方の街中を軒並にアンパンを売って歩いた。
 このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売は一寸も苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭と云う風に、私のこしらえた財布には金がたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。或る日、街から帰ると、美しいヒワ[#「ヒワ」に傍点]色の兵児帯を母が縫っていた。
「どぎゃんしたと?」
 私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路《みち》が暮れそめていて、私の目に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子《ガラス》玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。
[#改ページ]

(十二月×日)

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さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
[#ここで字下げ終わり]

 雪が降っている。私はこの啄木《たくぼく》の歌を偶《ふ》っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の門燈《あかり》が薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅《あか》い花のようで、とても美しかった。

「婢《ね》やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」
 奥さんの声がしている。
 あああの百合子と云う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負っているような感じである。――せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。
(バナナに鰻《うなぎ》、豚カツに蜜柑《みかん》、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)
 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。
 夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。秋江《しゅうこう》氏の家へ来て、今日で一週間あまりだけれど、先の目標もなさそうである。ここの先生は、日に幾度も梯子《はしご》段を上ったり降りたりしている。まるで二十日鼠のようだ。あの神経には全くやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
 私の肩を覗《のぞ》いては、先生は安心をしたようにじんじんばしょり[#「じんじんばしょり」に傍点]をして二階へ上って行く。
 私は廊下の本箱から、今日はチエホフを引っぱり出して読んだ。チエホフは心の古里だ。チエホフの吐息は、姿は、みな生きて、黄昏《たそがれ》の私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読んでいると、もう一度チエホフを読んでもいいのにと思った。京都のお女郎の話なんか、私には縁遠い世界だ。
 夜。
 家政婦のお菊さんが、台所で美味《おい》しそうな五目寿司を拵《こしら》えているのを見てとても嬉しくなった。
 赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。
 お蔭《かげ》で本が読めること――。年を取って子供が出来ると、仕事も手につか
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