の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……」
 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺《しび》れて来るおもいだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。――天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船が沢山はいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。
 ――何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。

(一月×日)
 駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。
 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔《こ》のように、毛布問屋へ住み込む事になった。
 昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」
 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢《ながじゅばん》が、蒲団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないでピチャピチャ湯音をたてている。あの白い生毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。沈黙《だま》った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ、泪《なみだ》のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は顔をそむけた。

(一月×日)
 毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。
 東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭《ざけ》の一片一片を身をはがして食べるのも甘味《うま》い。
 大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
 雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである蔭《かげ》で、私は人に隠れて思い切り足を掻《か》いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。
「ホウえらい霜やけやなあ。」
 番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。
「霜やけやったら煙管《きせる》でさすったら一番や。」
 若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。

(二月×日)
「お前は金の性で金は金でも、金|屏風《びょうぶ》の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」
 よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。
 只一冊のワイルド・プロフォンディスに
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