てば、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ……て言ったってさ、そしたら、ああ病院とまちがえましたってじっとしてたら丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……」
「へん! 随分助平な話ね。」
私はやけに頬紅を刷くと、大学生は薄い蒟蒻《こんにゃく》のような手を合せて、「怒った? かんにんしてね!」と云っている。何云ってるの、裸が見たけりゃ、お天陽《てんとう》様の下で真裸になって見せますよ! 私は大きな声で呶鳴《どな》ってやりたかった。一晩中気分が重っくるしくって、私はうで[#「うで」に傍点]卵を七ツ八ツ卓子へぶっつけて破《わ》った。
(十一月×日)
秋刀魚《さんま》を焼く匂いは季節の呼び声だ。夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚ばかりたべさせられて、体中にうろこが浮いてくるだろう。夜霧が白い。電信柱の細いかげが針のような影を引いている。のれん[#「のれん」に傍点]の外に出て、走って行く電車を見ていると、なぜか電車に乗っているひとがうらやましくなってきて鼻の中が熱くなった。生きる事が実際退屈になった。こんな処で働いていると、荒さんで、荒さんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。
[#ここから2字下げ]
若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋しいの……。
[#ここで字下げ終わり]
誰も彼も、誰も彼も、私を笑っている。
「キング・オブ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のかけだ!」
どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのような十円札を、卓子にのせた。
「何でもない事だわ。」私はあさましい姿を白々と電気の下に晒《さら》して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干してしまった。キンキラ坊主は呆然と私を見ていたけれども、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまった。喜んだのはカフエーの主人ばかりだ。へえへえ、一杯一円のキング・オブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……ペッペッペッと吐きだしそうになってくる。――眼が燃える。誰も彼も憎らしい奴ばかりなり。ああ私は貞操のない女でございます。一ツ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達よ、眉をひそめて、星よ月よ花よか! 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならないじゃないの。真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑っている。
[#ここから2字下げ]
歌うをきけば梅川よ
しばし情《なさけ》を捨てよかし
いずこも恋にたわぶれて
それ忠兵衛の夢がたり
[#ここで字下げ終わり]
詩をうたって、いい気持ちで、私は窓|硝子《ガラス》を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧なさい、絢爛《けんらん》な、虹《にじ》がかかった。君ちゃんが、大きい目をして、それでいいのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んで二階へ上って行った。
[#ここから2字下げ]
やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
[#ここで字下げ終わり]
好きな歌なり。ほれぼれと涙に溺れて、私の体と心は遠い遠い地の果てにずッとあとしざりしだした。そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、例の月はおぼろに白魚の声色屋のこまちゃくれた子供が来て、「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……」とねだっている。
もうそんな影のうすい不具者なんか出してしまいなさい! 何だかそんな可憐《かれん》な子供達のささくれた白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなる。
(十一月×日)
奥で三度御飯を食べると、主人のきげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。二時がカンバンだって云っても、遊廓《ゆうかく》がえりの客がたてこむと、夜明けまでも知らん顔をして主人はのれん[#「のれん」に傍点]を引っこめようともしない。コンクリートのゆか[#「ゆか」に傍点]が、妙にビンビンして動脈がみんな凍ってしまいそうに肌が粟立《あわだ》ってくる。酸っぱい酒の匂いが臭くて焦々する。
「厭になってしまうわ。……」
初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのを絞りながら、呆然とつっ立っていた。
「ビール!」
もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がしている。新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で銀流しみたいな男がはいって来た。
「ビールだ!」
仕方なしに、私はビールを抜いて、コップになみなみとついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと
前へ
次へ
全133ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング