しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした侘しいカフエーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思い出してくる。
 水っぽい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ……。

「まだ痛む?」
 そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔《のり》の香をただよわせて、お君さんは枕元に寿司皿を置いた。そして黙って、私の目を見ていた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんできて、薄い蒲団の下から財布を出すと、君ちゃんは、「馬鹿ね!」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打った。そして、蒲団の裾をジタジタとおさえて、そっと又、裏梯子を降りて行くのだ。ああなつかしい世界である。

(十月×日)
 風が吹いている。
 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這《は》っている夢を見た。それにとき[#「とき」に傍点]色の腰紐が結ばれていて、妙に起るときから胸さわぎがして仕方がない。素敵に楽しい事があるような気がする。朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼《あお》くむくんだ顔は、生活に疲れ荒《す》さんで、私はああと長い溜息《ためいき》をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりとした自分の顔を見ていると、急に焦々《いらいら》してきて、唇に紅々《あかあか》とべにを引いてみた。――あの人はどうしているかしら、切れ掛った鎖をそっと掴《つか》もうとしたけれども、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなっている。
 のれん[#「のれん」に傍点]越しにすがすがしい三和土《たたき》の上の盛塩を見ていると、女学生の群に蹴飛《けと》ばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行っている。私がこの家に来て丁度二週間になる。もらいはかなりあるのだ。朋輩《ほうばい》が二人。お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返《いちょうがえし》のよく似合うほんとに可愛い娘だった。
「私は四谷で生れたのだけれど、十二の時、よその小父さんに連れられて、満洲《まんしゅう》にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その小父さんの顔もじき忘れっちまったけれど……私そこの桃千代と云う娘と、広いつるつるした廊下を、よくすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだったの。内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったのよ。土が凍ってしまうと下駄で歩けるの。だけどお風呂から上ると、鬢《びん》の毛がピンとして、とてもおかしいわよ。私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったの。」
 客が飲み食いして行った後の、こぼれた酒で、テーブルに字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。もう一人私より一日早くはいったお君さんは背の高い母性的な、気立のいい女だった。廓の出口にあるこの店は、案外しっとり落ちついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。こんな処に働いている女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあっていても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合うと、他愛もなくすぐまいってしまって、十年の知己のように、姉妹以上になってしまうのだ。客が途絶えてくると、私達はよくかたつむり[#「かたつむり」に傍点]のようにまあるくなって話した。

(十一月×日)
 どんよりとした空である。君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしどこかでかいだ事のある花の匂いがする。夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。「あんたはとうとう裸を見られたんですってよ。」お初ちゃんが笑いながら鬢窓に櫛《くし》を入れている私の顔を鏡越しに覗《のぞ》いてこう云った。
「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事訊いたから、風呂って云ったの。」
 呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。
「嘘だよ!」
「アラ! 今そう言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと思ってたら、帰って来て、水野さん
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