から? お前一人で来たのかね?」
「ええ……」
「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」
「長い事、函館の青柳町にもいた事があります。」
「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛《なまり》がありますもの。」
 啄木の歌を思い出して私は俊ちゃんが好きになった。

[#ここから2字下げ]
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
[#ここで字下げ終わり]

 いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。真実《ほんとう》に何だか人生も楽しいもののように思えて来た。皆いい人達ばかりである。初秋だ、うすら冷たい風が吹いている。侘しいなりにも何だか生きたい情熱が燃えて来るなり。

(十月×日)
 お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。
 客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配しています。
 と思う。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」
 三年もこの家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のききかたで私をさそってくれた。
「ええ……行きますとも、何時《いつ》でも泊めてくれて?」
 私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。
「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎《あなた》に惚れました、一生捨てないでねなんて馬鹿らしい事は真平だよ。こんな世の中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、私に子供を生ませるとぷい[#「ぷい」に傍点]さ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールだよ、いい面の皮さ……馬鹿馬鹿しい浮世じゃないの? 今の世は真心なんてものは薬にしたくもないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからなのさ……」
 お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。

(十月×日)
 ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風器の台
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