割りをしてくれるのだと云う親分のところへ酒を一升持って行く。
 道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐって、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶を啜《すす》っていた。
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行《くら》が建ちましょうよ。」
 お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。
 誰も知人のない東京なので、恥かしいも糞《くそ》もあったものではない。ピンからキリまである東京だもの。裸になりついでにうんと働いてやりましょう。私はこれよりももっと辛かった菓子工場の事を思うと、こんなことなんか平気だと気持ちが晴れ晴れとしてきた。
 夜。
 私は女の万年筆屋さんと、当《あて》のない門札を書いているお爺さんの間に店を出さして貰った。蕎麦《そば》屋で借りた雨戸に、私はメリヤスの猿股《さるまた》を並べて「二十銭均一」の札をさげると、万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死[#「ランデの死」に傍点]を読む。大きく息を吸うともう春の気配が感じられる。この風の中には、遠い遠い憶《おも》い出があるようだ。鋪道《ほどう》は灯の川だ。人の洪水だ。瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算器を売っていた。「諸君! 何万何千何百何に何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
 沢山の群集を相手に高飛車に出ている、こんな商売も面白いものだと思う。
 お上品な奥様が、猿股を二十分も捻《ひね》っていて、たった一ツ買って行った。お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少しかわるから、お前は、御飯をお上り。」
 お新香に竹輪《ちくわ》の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっていた。鋪道に背中をむけて、茶も湯もない食事をしていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」
 と大きい声で言っている。
 私はふっと塩っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母
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