。海添いの桜並木、海の上からも、薄|紅《あか》い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変愛していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。
十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。
(四月×日)
ひからびた、鈴蘭《すずらん》もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。
軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う。もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……、明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。
「ホウ絵をお描きになるんですね。」
「いいえ内職ですのよ。」
およそこんな男は大きらいだ。この男の眼の中には、人を莫迦《ばか》にしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。
「昨日、信越の旅から来たのですか、東京はあたたかですね。」
「そうですか。」
新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみた
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