い山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく[#「ざっこく」に傍点]屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京《ナンキン》町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾《おりお》と言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭《いや》になっていたのだ。それは丁度、直方《のうがた》の炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ[#「モッタイナイ」に傍点]年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。
直方の町は明けても暮れても煤《すす》けて暗い空であった。砂で漉《こ》した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋[#「馬屋」に傍点]と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李《こうり》に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯《へこおび》に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭《がいたん》のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋《くずや》、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖《とが》った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢《じゅばん》きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
流行歌のおいとこそうだよ[#「おいとこそうだよ」に傍点]の唄が流行《はや》っていた。
私の三銭の
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