に二人の荷物を運ぶと、私はホッとしたのだ。博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私は二人分の下駄を店の土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロしていて、人のいい主人の鼾《いびき》も平らだ。お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰って留守だった。――私達は学生や定食の客ばかりではどうする事も出来なかった。止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあったものの、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかったのだ。金が這入《はい》らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃げるより外に方法もない。朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑としていて、食堂のセメントの池には、赤い金魚が泳いでいる。部屋には灰色に汚れた空気がよどんでいた。路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと地面へ飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。
「まあこんなにあるの……」
俊ちゃんはお上りさんのような恰好で、蛇の目の傘と空色のパラソルを持ってくる。それに樽《たる》のような信玄袋を持っていて、これはまるで切実な一つの漫画のようだった。小川町の停留所で四五台の電車を待ったけれど、登校時間だったせいか来る電車はどれも学生で満員だった。往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、薄汚く見えただろう。たまりかねて、私達二人はそばやに飛び込むと初めてつっぱった足を延ばした。そば屋の出前持ちの親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなかった。ぺしゃんこに疲れ果ててしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいいのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしない事よ。」
「元気を出して働くわねえ。あんたは一生懸命勉強するといいわ……」
私は目を伏せていると、涙があふれて仕方がなかった。たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであったとしても、今のたよりない身には只わけもなく嬉しかった。ああ! 国へ帰りましょう。……お母さんの胸の中へ走って帰りましょう…
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