の桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。と、桜の園のガーエフの独白を、別れたあのひとはよく云っていたものだ。私は何だか塩っぽい追憶に耽《ふけ》っていて、歪《ゆが》んだガラス窓の大きい月を見ていた。お計さんが甲高い声で何か云っていた。
「ええ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」
 秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いて勢いよく湯煙をあげて風呂へはいった。
「うふ、私、処女よもおかしなものさね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたのよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」
「肺が悪くて、赤ん坊と家にいるのよ。」
 不幸な女が、あそこにもここにもうろうろしている。
「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」
 肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。
「私のは三月目でおろしてしまったのよ。だって癪《しゃく》にさわるったらないの。私は豊原の町中でも誰も知らない者がないほど華美な暮しをしていたのよ。私がお嫁に行った家は地主だったけど、とてもひらけていて、私にピヤノをならわせてくれたのよ。ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾き。そいつにすっかり欺《だま》されてしまって、私子供を孕《はら》んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと判っていたから云ってやったわ。そしたら、そいつの言い分がいいじゃないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私|口惜《くや》しくて、そんな奴の子供なんか産んじゃ大変だと思って辛子《からし》を茶碗一杯といて呑んだわよふふふ、どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバ[#「ツバ」に傍点]を引っかけてやるつもりよ。」
「まあ……」
「えらいね、あんたは……」
 仲間らしい讃辞がしばし止《や》まなかった。お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背中にかけてやっていた。私は息づまるような切なさで感心している。弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき裏切った男の頭を考えていた。お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいいって云う事が何の気安めになるだろうか――。

(十月×日)
 偶《ふ》と目を覚ますと、俊ちゃんはもう支度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」
 湯殿
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