、下着の洗濯、これでなかなか楽な生きかたではない。年齢《とし》をとった女中をおくことも時に考えるけれども、いまの女中は十三の時に来て三年いる。私の邪魔にならないので、何が不自由でも、それが一番幸せだと思っている。第一、女中がいてくれるなんて、マノン・レスコオの中の何かの一節にあったけれども、なりあがり者の私としては、はずかしい位なのだ。しかも三年もいてくれている。
私は、ひとにはなかなか腹をたてないけれども、家ではよく腹をたてて自分で泣きたくなる。その気持ちはどこへも持ってゆきようがないので、机の前に坐り、呆《ぼ》んやりしている。煙草《たばこ》はバットを四、五本吸う。昔、好きなひとがあった頃は、そのひとが煙草がきらいで吸わなかったけれども、いまはそのひとと何でもなくなったので、平気で煙草を吸うようになってしまった。やけ[#「やけ」に傍点]になる気持ちは大変きもちがいい。私は何度もやけ[#「やけ」に傍点]になって、随分むしゃくしゃした昔だったけれども、この頃は日向《ひなた》ぼっこみたいだ。――小説の話は大きらい、説明や批評が少しも出来ないからだろう。ほら、お日様みたいな小説よ位の説明ならば指で丸をつくって、「ほら、こんなに円満なのさア」で、「ああそうか」と受取って貰うより仕方がないのだ。時々|埃《ほこり》を叩くような批評を貰う時がある。辛いなと思うけれども、それで、シゲキを受けることもひといちばいのせいか、すっかり呆んやりしてしまって、腐った、魚みたいに、二、三日|蒲団《ふとん》をかぶって寝てしまう。自分の作品がよくないからだ。一番、自分が知っているから一時はゆきば[#「ゆきば」に傍点]がなくなるけれども、机の前に坐り、また、こつこつ何か書き始める。私はこれが宗教だと云うようなものがあるとすれば、ただ、こつこつ書いている。その三昧境《さんまいきょう》にあるような気がする。厭な言葉だけれども、私は万年文学少女なのでもあろう。
つい四、五日前、税務所のお役人が来た。お役人と云うと、胸がどきどきして、ちょうど昼食|時《どき》だったけれども、御飯が咽喉《のど》へ通らなかった。私は税金を払い始めてちょうど四年になるけれども、蔭では実際辛いなと思ったことがたびたびだった。収入が拾円の時が三、四度あったり、ちょっと旅をすると、その収入が止ったりするのに、税金は私にとって案外立
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