宿の軒にも灯がついています。軒の下宿人の名札のビリッコに、「谷村三四郎」と云う、自分の名が見えました。谷村さんは、十二三人の下宿人の名札をそつとしらべて見ました。今日の女のひとは、どの男を訪ねて行つたのであろうかと、ですが、どれもこれもあの美しい女の訪ねて行きそうな男の名前なんぞはなく、只一人これであろうかと思つたのは、「小松百合子」と云う優しい女名前でありました。
「ハハン、さては、女の友達を訪ねて来たのであろう」
 谷村さんは、心が何か静まつて、一寸うれしく肩で笑いました。と、ふと自分の名札を見ますと、女の髪の毛が、三四郎の三の字のところへくつついて、フワフワ風に吹かれていました。
 谷村さんは、今朝、太つちよの女の髪の毛を一本抜いて、のつぴきならなかつたあの気持を思い出して、また憂欝になりましたが、此の髪の毛を取つて、顕微鏡でしらべたならば、あの太つちよの下女に、しかと訓戒を与える事も出来るであろうと、三の字にくつゝいていた、その髪の毛を摘んで、中へはいりました。
「お帰んなさいまし」
 又、太つちよの下女です。
 下女は朝と違つて、大変さつぱりと髪を結つて、豚のように太つた襟筋
前へ 次へ
全22ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング