」
「オホッホ……まア呑気な方、私二階の四号室です、どうぞ遊びにいらつして下さいませ」
「ハア、ありがとうございます」
谷村さんは何か子供つぽくうれしくなつて、水道の栓も忘れた位、勇んで部屋へかえりますと、もう顕微鏡の事なんぞも忘れ果てて、ジリジリと釦を押しました。
「お呼びですか」
「あゝお腹が空いたんだ」
「まア、谷村さんたら随分憎らしいわ、御飯上げましようかと云つたら、もう一時間位して持つて来てくれつて云うし、ゆつくりしていると、じきに釦を押すし……」
「たのむ、僕が悪いんだよ」
谷村さんは髪に練り油をつけながら、また肩で笑つて見せました。
4 清修館へ越して二度目の夕飯です。めじまぐろの焼いたのに、油揚げと大根の汁と、葱蒟蒻の味噌なます[#「なます」に傍点]、谷村さんはどれも好物ではありませんでしたが、太つちよの下女の持つて来るお櫃が待ち切れないで、そつと、味噌なます[#「なます」に傍点]なんぞ摘んでみたりしました。
「あゝ急がしいこつた」
「大丈夫だと思つたンだけど、とても空いちやつたんだよ」
「何だ、谷村さんは子供と同じこんだ」
太つちよの女中は、きわめて小さく見えるお櫃を置くと、谷村さんの前に肉づきの厚い手を差し出して、
「さア、一杯飯ついであげようかね」
「いゝよ、僕つぐから」
それでも、太つちよの下女は優しげな手つきで、谷村さんに御飯を一杯お給仕しました。そして、何だかもじもじと去りがたくしておりますので、谷村さんは眉をひそめて云いました。
「もういゝよ」
「そうですか……」
太つちよの女中は、レースの衿のところから、自分のふところ[#「ふところ」に傍点]へ手を差し入れると、小さい卵を二つばかり出して、谷村さんの膳の上にのせました。
「何するの?」
谷村さんは顔を真赤にして、その卵を睨みましたが、もう太つちよの下女は障子の外に出ていました。
台所の方では、何事があつたのか、女達がガヤガヤと笑つていました。
谷村さんは医学上から見ても、あのように太つた女は好きではありませんでしたので、卵の親切を受けるとどうしてよいものか、胸がコトコト鳴りました。
卵を食べないで、此のまゝ返してやれば、あの女が怒るだろうし、谷村さんはその二ツの小さい卵を着物のはいつている竹行李の中へ入れておきました。
二階の四号室、美しい彼女、もう谷村さんは気が気ではなく、ぷいつと障子を開けると、玄関へまわつて、わざと大きい音を立てゝ二階へ上つて行きました。
四号室は、丁度谷村さんの部屋の真上です。谷村さんは猫のように、一寸とりすまして、眼鏡をズリ上げました。
「先程は失礼しました」
部屋の中には電気がついているようでしたが、大変静かです。
「先程は失礼いたしました」
すると、隣りの五号室の障子が開いて、眉の太い男が顔を出しました。
「隣りの人達、いま出掛けられたようですよ」
「ア、そうですか」
谷村さんは、大変自分のやつている事を浅薄だと思いました。部屋へ帰つて一生懸命勉強しようと思いました。谷村さんは、下へ降りる時は、まるで、鼡のようにチロチロと足音をしのばせましたが、別に誰も谷村さんが二階へ上つたのを見た人はありませんでしたし、降りたのも見た人はありませんようでした。
部屋へはいると、膳はもう下げてありました。谷村さんは落ちついて机の前に坐ると、ふとまた髪の毛の事が気にかゝつて、そつと電気の下に顕微鏡を持ち出して、本の間にはさんでおいた太つちよの下女の髪の毛を小さく剪つて覗いて見るのです。
鉱物性の油が沢山ついているのに変りはありませんでしたが、どうも蜆汁の中から出た髪の毛とは質が違つていて、非常に細く柔かそうでした。
スガメのかしら、谷村さんは太つちよの女がフッとおかしい程いとしいと思いました。四号室の女の人のように、美しい姿、美しい顔ではありませんが、動物的な人のよさを持つていました。谷村さんは変な幻想を払いのけるように畳に横になると、二階の四号室の女の人達が帰つて来たのででもありましよう、谷村さんの顔へ、ぱらぱらと埃が落ちて来ました。
5 谷村さんは、それから四五日は、学校にも出ないで毎日呆やりしていました。
二階で、一寸誰かあばれて埃が落ちても、谷村さんは狂人のように口を開けて、その埃を吸うのです。
美しい女のひとは一度も谷村さんを訪ねてくれようとはしませんでした。洗面所で、あの翌日会つた時も女のひとは手をしやぼん[#「しやぼん」に傍点]で洗いながら、「少し急がしいものですから、もう出歩いてばかり居ります」 そんな風な事を云つて、谷村さんを予防するかのような口吻でさえありました。でも、谷村さんには、その女のひとに会えないながらも、もうひとつの、甘い出来事が心の片隅に残してあつたのです。
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