いました。
「清修館?」
「ハア!」
「清修館と云うと……」
「あのウ、何でも郵便局と八幡様がありますそうで……」
 谷村さんは急に、体中がジンジンと熱くなつて来ました。
「イヤア! そうだ、それは、そのウ、よく知つています」
「まあ、左様でございますか、小さい下宿屋さんだつて聞いていたのですが、此の辺は初めてだもので、見当がつきませんの」
「御案内しましよう」
「マア、それは、でも……御道順でございますか?」
「いゝえ後返りですが、僕はひま[#「ひま」に傍点]ですから帰りましよう」
「済みませんわ、そんなにして戴いて……」
 街路樹のすゞかけ[#「すゞかけ」に傍点]がさわさわと谷村さんの頭の上で鳴つていました。谷村さんは凉しい風に何気なく帽子を取りましたが、一夏中被つたカンカン帽子が黄に焼けて、一寸気恥ずかしい思いでありました。
 その断髪の女のひとは、女給のようにも見えました。昨夜からのでありましよう、衿白粉が黒ずんで、顔が蒼くむくんでいました。それでも、眉も眼も唇もはつきりして、大変美しいひとで、谷村さんは、此の様な若い女のひとと歩くのは初めてでありますから、一寸まぶしい[#「まぶしい」に傍点]思いがいたしました。
「その風呂敷ひとつ僕が持つて上げましよう、お出しなさい」
「いゝえいゝんでございますよ」
 女のひとの美しい指には青い静脈が浮いて、谷村さんには、それが大変いたいたしく見え、谷村さんは無理に、女のひとからその風呂敷包みの一ツを取つて持ちました。谷村さんに取つて、それはなぜか心楽しい事でありました。

「あゝあれですか?」
 八幡様のダラダラ道を上ると、一番高いところに、清修館と云う、白ペンキの看板が出ていました。心長閑な谷村さんは、昨夜越して来たばかりのせいか、自分の泊つている下宿の名前さへも忘れていたのでありました。
「あれです」
 谷村さんは蜆汁の事を考えて、又、フッと憂欝になりました。
「ありがとうございましたわ、本当に……」
 女のひとの眼は空の色を写していたせいか、美しく、またなくなまめかしく谷村さんの心をかすめました。
 谷村さんは、下宿の下まで来ると、またきびすを返して、女のひとに別れました。

 3 もう、街にはあの谷村さんの好きな、夕暮の燈火がつきそめていました。谷村さんは、さらに声高く李白の詩をうたつて、下宿へ帰つて来ました。下宿の軒にも灯がついています。軒の下宿人の名札のビリッコに、「谷村三四郎」と云う、自分の名が見えました。谷村さんは、十二三人の下宿人の名札をそつとしらべて見ました。今日の女のひとは、どの男を訪ねて行つたのであろうかと、ですが、どれもこれもあの美しい女の訪ねて行きそうな男の名前なんぞはなく、只一人これであろうかと思つたのは、「小松百合子」と云う優しい女名前でありました。
「ハハン、さては、女の友達を訪ねて来たのであろう」
 谷村さんは、心が何か静まつて、一寸うれしく肩で笑いました。と、ふと自分の名札を見ますと、女の髪の毛が、三四郎の三の字のところへくつついて、フワフワ風に吹かれていました。
 谷村さんは、今朝、太つちよの女の髪の毛を一本抜いて、のつぴきならなかつたあの気持を思い出して、また憂欝になりましたが、此の髪の毛を取つて、顕微鏡でしらべたならば、あの太つちよの下女に、しかと訓戒を与える事も出来るであろうと、三の字にくつゝいていた、その髪の毛を摘んで、中へはいりました。
「お帰んなさいまし」
 又、太つちよの下女です。
 下女は朝と違つて、大変さつぱりと髪を結つて、豚のように太つた襟筋に、うつすりと白粉をはいて、衿にレースのついた白いかつぽう[#「かつぽう」に傍点]着を着ていました。
「お部屋へじきに御飯持つて参りましようかね」
 谷村さんは、夕飯を持つて来るまでに調べておきたかつたので、気むずかしく声を荒げて云いました。
「僕アおなか[#「おなか」に傍点]いつぱいだ、もう一時間位してからにして下さい」
 太つちよの女中は、谷村さんを見ても、朝のようにキッキッと笑いませんで、淋しそうに大きい溜息をついて、手紙箱の方をしらべに立つて行きました。二階から空のお膳を持つて降りて来たスガメの下女が、谷村さんを見て、くすりツと盗み笑いをして台所へ行きます。
 谷村さんは、大変眼が近いので、スガメの下女の盗み笑いを見逃して、郊外から持ち越しのスリッパをペタンペタンはいて、洗面所の方へ手を洗いに行きました。

「まア!」
「やア、さつきは……」
「まア、本当に私こそさつきはありがとうございました。お蔭様で、あのウ……どなたかお友達でもお訪ねになつてこゝへいらつしやいましたの」
「いゝえ、僕ア実は昨夜こゝへ越して来たんですが、清修館と云うのが自分の下宿だとは思いませんでしたから……
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