た。
「何で泣いていたんです?」
「うゝん何でもないのよ」
「だつて……何かあるンでしよう」
そう云つて、谷村さんがじつとその女のひとの眼を見ていると、女のひとはぼやけた電気の下に、瞿麦の花のようにパッと立ち上つて、谷村さんの肩に頬を伏せました。
谷村さんの胸はまるで暴風雨のように荒れて、美しい女のひとの円い肩をじつと抱き締めました。
「貴方、私を助けると思つて、五拾円程拝借させて下さいませんか、二三日うちにお返し出来るンですが、ねヱ」
そこで、今日来たばかりの金を谷村さんは、そゝくさとひき出しから抜いて来ると、泣き濡れている美しい女のひとの手に握らせてやりました。
「まア! こんなに沢山、あたし、どんなにしても御恩返しいたしますわ――本当に貴方と私の間は運命的だつたのですわね」
美しい女のひとは背伸びして、背の高い谷村さんの唇を待ちました。谷村さんは一生懸命[#「一生懸命」は底本では「一生県命」]な努力で、そつと優しく、女のひとの唇を封じましたが、女のひとはふつと唇をはずすと、いつまでも谷村さんの激しい胸の上に靠れていました。
「人の奥さんつて、本当かい」
「えゝあなた、男の方が長い事此の下宿にいましてね、女を横浜あたりのチャブ屋にやつていたらしいんですがよウ、此の間やつと呼んだんですよ」
「そいでまだ居るのかい?」
「いゝえ此間、間代を半分入れて、体にいゝからつて二人でどツか郊外の方に越して行きましたよ」
谷村さんは瞼の裏が熱くなつて来る程、癪にさわつて仕方がありませんでした。此の様なふしだらな事は、誰にも云えるものではありませんでしたし、谷村さんはめつちやくちやに腹が立つてなりませんでした。
本箱の上のメスを取つて、壁に投げつけたり、本を裂いてみたり、まるで虎のようになりました。そして女を愛すると云う事が、こんなにもくだらない事であつたのかと、谷村さんは初めての恋愛であるだけに、大変苦しみが深いようであるのです。
すると、太つちよの女はかつぽう[#「かつぽう」に傍点]着を顔に押し当てゝ泣き出してしまいました。
「何も君が泣く事はないじやアないか」
「貴方がそんなにしていらつしやると悲くなります」
「何も君にそんなに悲んで貰う理由なんかないよ」
「許して下さい」
「君は早く台所へさがつとくれよツ、何も僕は君から許してくれの何のつて言つて貰う理由な
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