谷村さんは、思い切つて太つちよの下女に、あの美しい女のひとの事を尋ねてみようかなんぞと思いました。けれど、谷村さんは、食事ごとに、竹行李の中にたまつて行く卵の事を考えると、一度に苦しい気特になつてしまいます。
「本当にもう卵なんか持つて来なくてもいゝんだよ、僕アあんまり好きじやアないんだ」
 そう谷村さんが云つても、太つちよの女は、現在二ツずつ卵をたいらげて行つている谷村さんの事を考えて、きつと、此の人は遠慮から、その様な事を云うのであろうと思つていました。
「えゝ私は、二ツばかりの卵を持つて来るのに無理をしているのではありませんよ」
 谷村さんは困つてしまつて、毎日日課のように卵を二ツずつ竹行李の中にしまいました。

 雨あがりの、秋めいた夜でありました。感傷的になつた谷村さんは、フッと太つちよの女をとらえて、四号室の女のひとの事を訊きました。
「四号室の女のひとつて、あゝ私のように太つた画描きの女のひとですか?」
「太つた女のひと?」
「えゝ」
「違うよ、すらりと背の高いひとがいるだろう、ホラ唇の紅い……」
「あゝあれ! あのひと、奥さんですよ」
 谷村さんは頭から水をあびせられたように愕いてしまいました。
 実は、谷村さんに本当の事を告白させると、三度目にあの美しいひとに会つた時、云うに云えない甘美な思い出があるのです。
 谷村さんは、遠く故郷を離れて、国にはもうお母さんがありませんでしたので、夜蔭に乗じては、下宿の洗面所で猿股を洗ふ事を常としておりました。

 その夜も、いつものように、二ツばかりの猿股を持つて谷村さんが洗面所へ行きますと、サアサアと水を出して何か洗つている先客がありました。谷村さんは悪びれもしないで、洗面所へはいつて行きますと、驚いた事に、あんなに思いつめていたあの美しい女のひとが、じたじたと冷水で眼を洗つているところでありました。
 谷村さんが猿股をふところ[#「ふところ」に傍点]へ入れようとしたのと、その女のひとが振り返つたのが一緒だつたもので、谷村さんのまごつきようは、まるで火花かなんぞのようにチカチカと周章てていました。
「どうなすつたんです?」
「一寸した事で泣いてたの……」
 その洗面所は横長い窓を持つていて、更けた街の屋根と、大きい月を写していたせいか、女のひとの言葉つきも、何だか非常に煽情的で、古風な風景にさえ思えまし
前へ 次へ
全11ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング