ど、いま少し、若い女がぽつと明るくなるといゝと思ふなア、何だか暗くてじめじめしてゐるンぢやありませんか。そのくせ、どのひとも荒つぽくてがさつで、何だか、女の世界を感違ひしてゐるンですよ。怖い顏してる女の顏が妙にうようよ目立つやうになりましたねえ。會社で見てたつてそうですよ。女事務員なンかが大金を持つて使ひに來るンだけど、金をつかんで出すかつこうが、もうまるでライオンみたいに亂暴なンです。澤山の金をみても胸がどきどきしないンですね。へいちやらな顏をして、預けに來るンだから、これでは男の給仕の方が女みたいだと話しあふ時があるンですがね。女がおしやれをしなくなると、男よりも荒さんでひどくなつてしまふンですね。全くよくないけいこうですよ。かへつて、三十をすぎた商家のおかみさんの方がよつぽど色氣があつて人情がこまやかですね。――いまごろの若い女は、いつたい何を考へ、どんな希望を持つてゐるのか少しもわからない。水を與へないで、美しい花を見ようと云ふのは世間が無理ですよ。關西のどこかでは、一日、お白粉をつけない日をつくつてみたり、紅を塗らない日をつくつてみたり、どうにも厭なことですな」守一はそんなことを云つて、もんにも、工藤をだづねて上海へ行つてみてはどうかとすゝめてくれた。もんは、弟にそんな事を云はれるとなほさら淋しくて仕方がなかつた。鏡を見ても、何となく働きづかれがしてゐるやうに自分が乾いてみえる。會社へ出てゐても、誰一人として自分をしみじみとみつめてくれる人はない。どんな不器量な女でも、始めてのはいりたての女事務員には、何故か男の社員は親切な態度をみせてゐた。新しくはいつた女事務員は、一日一日と美しくみがかれて來て、二三ヶ月もすると、すつかり職業婦人のタイプになり、平氣で男の社員の前でコンパクトを擴げるやうになつてくる。すると、男の社員達は二三ヶ月前に見せてゐたあんなに親切な好意を憎しみの表情にかへて、お互ひ同志ではニツクネームをつけてその女事務員を呼びあつたりしてゐた。もんは長く勤めてゐるだけに、こんな場面のうつりかはりを幾度か見て來て知つてゐるのだつた。
 思ひきつて、もんが會社をやめて上海へ旅立つて行つたのは去年の秋であつた。音信が來なくても、船の名前を知らせてやれば、工藤だつて、どんな事情があるにしても迎へに來ないと云ふはずはない。雨の降る日に長崎の町を發つて、翌日上海へ着いた時は、上海はからりとした秋晴れの美しい天氣だつた。澤山の迎へのなかに工藤の姿を探したけれど工藤はゐなかつた。遠い異郷へ來て、はじめて、信頼してゐたひとに見捨てられたやうなうそさむいものを感じた。もんは、船で知りあつた女のひとの世話で、賑やかな四川路底の日本人の旅館に拜み[#「拜み」は底本では「拜む」]こむやうにしてやつと小さい部屋をとつた。部屋のなかできいてゐると、街の建物が石や煉瓦で建つてゐるせゐか、人聲や俥のベルの音がかんだかくひゞいてきこえた。一寸近所を歩いて買物をしても物價は非常に高い。二階三階が爆破されてゐても、階下では商賣の店をひろげてゐる支那人の店もあつた。もんは、四圍が暗くならないうちにと、宿で自動車をたのんでもらつてヤンジツポの近くにある[#「ある」は底本では「あの」]工藤のアパートにたづねて行つた。工藤の部屋には鍵がかゝつてゐて留守だつたけれど、隣室の若いおくさんの話では、御夫婦とも朝からお出掛けで留守ですと云つた。工藤さんのおくさんは、九州の方だとかで氣分のいゝ明るいひとですと話してゐた。あゝそうだつたのかと、もんは茫然とした氣持で、隣室のおくさんにアドレスを書いた名刺をことづけて宿へ戻つた。もんは食事もしないで暗い部屋で早くから眠つた。リノリユームを敷きつめた廊下をしじゆう大きい靴の音や、男の太い聲が行き來してゐた。高い天井近くに青ガラスの窓が一つあつた。置床にはがさつな鏡臺が一つあるきりの部屋である。もんは寢ながらくれてゆく窓を見てゐた。自分が莫迦だつたと思つた。人倫の道と云ふのはこんなものだつたのかと、ふうつと溜息をつきながら枕をつかんでゐた。工藤は自分と云ふ女の躯をみんなよく知つてゐるはずだのに、どうしてよその女のひとと、平氣で暮してゐられるのか少しもわからないのである。いまさら、工藤を深くうらむ氣持にもなれなかつたけれども、あんまり、自分の間拔けさがめだつてきて肚にをさまらない氣持だつた。父と弟へは着いたといふ電報だけ打つた。
 翌日、工藤が薄色のついた眼鏡をかけてもんをたづねて來た。工藤は默つたまゝ疊へ寢ころがつて眼鏡をはづした。もんが、どうしてくはしく書いた手紙をよこさなかつたのですか、そしたら、私も來るのではなかつたのだと話すと、工藤は毎日疲れて、社の用事以外は字一つ書く氣がしなかつたのだと云つた。「ずつと以前から御
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