一緒なンですつてね」もんがうらみがましく云ふと、工藤はむつくりと起きて腹這ひになると、頬杖をついて、「何も彼もメーフアーズさ。君が惡いンだよ。君が……」そう云つて、桃色の柔い包みにはいつたルビークインと云ふ煙草を出して一本口に銜へた。工藤は、いまの妻君を非常に愛してゐるらしく見える。どんな女性かは知らないけれども、よつぽど氣に入つたひとなのであらう。工藤の眼は、信州の山のなかで見た激しい表情とはおよそ違つてゐた。まるで氣のおけない女友達にでも逢つたやうに、御飯でもたべに行かうとか、南京路を歩いてみようとか現在の二人には少しもかゝはりのない事を云つた。これでは戀草を力車に七車と力んでみやうにも力みやうがない。もんは呆れたやうな顏をして默つてゐた。
もんはそれから暫く上海の日本人の店で働いた。小さい雜貨店で鑵詰から呉服類まである店だつたので朝から夕方まで相當忙はしかつた。時々店へ買物に來る工藤にあつたりしたけれど、もんはあまり話をしないやうにしてゐた。店の休みの日なんか、思ひがけない街通りで醉つぱらつて歩いてゐる工藤をみかけたりした。お互ひに胸におちない別れかたをしてゐるので、たまに逢へばなつかしかつたけれど、もんは異郷に來た淋しさだけで、昔の戀人によりそつて行くのは自分の身を殺すやうなものだと思つた。充分にみのらないまゝで地に落ちてゆく果物のやうに、もんは、一人で考へ、一人でその考へを實行して、自分はいゝことをしてゐると思つてゐるやうだつた。もんは店の寄宿舍に寢泊りをしてゐた。上海も、もんにとつては住みいゝところではなかつた。正月を上海ですごして、もんは店で知りあつた女友達と二人で蘇州の日本人のデパートに勤めに行つてみたけれど、こゝでももんは落ちつかなかつた。時々工藤のことを思ひ出した。蘇州にゐる間に、土地開發會社の社員だと云ふ米倉と知りあひになつた。知りあつて間もなく結婚を申しこまれたけれども、もんは厭だとことわつてしまつた。米倉は早くから妻君を亡くして、佐賀の田舍には女の子が一人あるのだと話してゐた。よく酒をのみ、らいらくで、人の困つてゐることには何でも世話をやいた。蘇州に着いたもんも、丁度部屋がなくて困つてゐるのを、店に來てゐた米倉が城内の支那人の旅館に世話をしてくれた。米倉は旅館や店にたづねて來るたびに珍らしいたべものや、化粧品をお土産に持つて來てくれた。昔、どこかのホテルのドアマンをしてゐたと云ふだけに大柄で好人物そうな男であつた。一ヶ月ぐらひして米倉はおめかしをしてもんをたづねて來た。もんの生れ故郷をきくでもなければ、何のためにこの蘇州まで來たのかときくでもなく、米倉は結婚話を持ち出した。もんは心のうちに、工藤以外にはもうすべての男に對して何の興味もない自分の年齡を知つてゐた。よその女のひとよりも早く女の終りが來たのかと、もんは淋しいと思ふ時があつたけれど、工藤に對する夢を何時までも捨てきれないでゐる自分がいとしくもあつたのだ。工藤を考へるときだけは心のなかは千變萬化の光を放つた。
蘇州のどぶ川のなかへ沈んで死んでしまへば、そうして工藤へ何か一筆かきのこしておけば、あのひとは本當のあのひとのこゝろにかへつてむくろを引取りに來てくれるだらうと云ふやうな空想も湧いた。蘇州へ旅立つ日、遠い奧地へゆくやうな氣持で、もんは工藤へ電話をかけた。少しはあのひとのこゝろになごりおしさや悔ひを殘すことが出來たらそれで本望だと感傷のこもつた電話のかけかただつた。工藤は電話の向ふで、元氣のいゝ聲で、「ぢやア、僕も休みをとつて遊びに行かう。君も近いンだから時々上海へ出ていらつしやい。躯は大切にして、たべものに氣をつけるンですよ」と誰がきいてもいゝやうな親切な言葉をかけてくれた。もんは電話をきつてから始めて蘇州へ行かなければならないやうな理由の少しもない自分の見得を感じた。つくづくこの氣持をいやだと思つた。と云つてどうしていゝのか自分で自分が判らない。蘇州へ來てからも、もんはわざと簡單なハガキを工藤へ出したきりだつた。軈て工藤からは長い手紙が來た。もん子さんを愛してゐることに少しも變りはない。尊敬さへしてゐます。だけど、あなたと自分はこんな風な運命にたちいたつてしまつて、いまとなつてはどうする事も出來ない。自分のいまの結婚の相手は丁度マノンレスコオのやうなもので、女房は惡い女で、どうにもかうにもならないけれど、まるで病氣にとりつかれてゐるみたいに、毎日風波がたえないくせに、自分は一介のくだらぬ男になりさがつて、逃げてゆく女房を追ひかけてゐる始末です。どうぞわらつて下さい。こんな思ひは上海と云ふ土地のさせるわざなのか。とにかく自分は、女房をすくつて、一度、内地へ戻つてみようと考へてゐます。あなたの親切は永久に忘れません。上海へ來られたあなた
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