ば、工藤の住所もひかへてあつた。あんなに思ひつめてたづねて行つた工藤のところから、いまは戰ひやぶれたやうな氣持でもんは東京の弟のアパートへ戻つて來てゐるのだ。丁度、一年前のいまごろ、秋雨のしとしと降つてゐる長崎の町で、工藤へ船の名前を知らせてやつたものだつた。工藤は船を迎へにも來てくれなければ、たづねて行つた工藤のアパートにはもうよその女のひとが一緒に住んでゐた。いつしよの船に乘りあはせたわけのわからない女の世話で、四川路底にある日本人旅館に宿をとることが出來たけれど、もんは、あの時の男のこゝろの頼りなさをいまだに忘れることが出來ない。工藤は弟の友達で、もんよりは一つ下だつたけれど、もんは工藤と同じ年だと、一つ年をかくしてゐた。工藤とは弟の紹介で自然に親しくなり、二人で一度信州の山の温泉へ旅行をした事があつた。工藤は新聞社へ勤めてゐた。お互ひに好きだとは一度も云ひあつたこともなく、旅行に出ても、まるで、一二年も前から同棲してゐた者同志のやうな、坦々とした交渉が出來てゐた。もんは十年も前に母を亡くしてからは、父親と、弟二人を相手に、まるで男まさりのやうな氣強い性格にかはり、五六年前から勤めを持つやうになつてからも、自分の對象となるべき人をみつけるよゆうが少しもなかつたのだ。平凡な職業婦人で、一寸見れば美しくはあつたけれど、男の社員達も、もんの事を同僚と思ふ以外には、異性と云つた氣持が少しもしませんねと云つてゐた。そのころは、もんも、そんなに云はれることを、自分が男の社員達と同等にみとめられてゐるやうに、何だかほこらかな氣持を持つてゐたのだつたけれど、女はやはり女であり、女らしいと云ふことが本當だと云ふことをこのごろになつてもんは悟つた。こんど、正月がくれば三十になる。女も三十になつてしまへば、もう、女の將來はおよその行末がきまつてしまふともんは思ふやうになつた。もんが三十になるまでの青春のひとゝきは工藤がたつた獨りであつた。工藤を知つたゝめに、もんは女の道としてのまた別な世界が開けたけれども、その愉しさはいまはあとかたなく消えうせてしまひ、何も知らないで暮してゐた時よりもいつそう暗いみじめなおもひをなめなければならなかつた。こんなみじめな思ひをする爲に、此世の中には、男も女も澤山うじやうじやとゐるのだらうかともんは不思議に思ふのだつた。何も話しあはなくても、一人の男と
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