が、行末を心細いと云つたのかわからなかつたけれど、趣味のいゝ華かな姿を見てゐると、どのひとも、あまり行末のことなど考へてゐるやうにも見えなかつた。もんは、この女のひと達と並んで吊革に手をそへてゐたけれど、暗い窓にうつつてゐる自分の姿の方が、はるかに行末のことを心配してゐるやうに見える。
 四谷見附まで來ると、女の人達は降りて行つた。明るいところで見る女の人達はどのひとも服裝よりは老けた顏をしてゐたけれど、どのひとの服裝もちやんと東京の街に似合はしく調和がとれてゐた。幸福さうな人達だなともんは、自分も、いまにあんなになりたいと思つた。いままでは莫迦な夢を見たと思つて、これからまた何處かに就職してせつせと働いてみたいと思つた。上海のデパートで買つた、出來合ひの腰の線の細い外套を着てゐる自分の姿が何だか支那人くさくて、湯たんぽをかゝへて歩いてゐた、支那人の賣娼婦のやうにおもへて仕方がない。
 大木戸のアパートへ戻つたのが十一時頃だつた。弟はもうよく眠つてゐた。電燈に紫の風呂敷をかぶせて、枕元に煙草を散らかしたまゝよく眠つてゐた。もんは外套をぬぐと、机のそばに置いてある光つた鋲のついたトランクに腰をおろして暫く呆んやりしてゐた。机の上にはいろんなものがごちやごちやと置いてあつたが、新しい糊の壺がもんの眼にとまつた。おなかが空いてゐたせゐか、糊壺を手に取つて一寸匂ひをかいで見た。甘い菓子のやうな匂ひがした。暖國にても腐敗することなく、また、寒國にても凍ることなし。純白清潔にして附着力強甚なれば、貼付後離れることなく、且つ使用後乾燥速なり、殊に本品は特殊な愛すべき芳香を有すれば、使用上不快なく、日常机上に缺くべからざる逸品なり。もんは効能書きを讀んで、小指で糊をすくひ、ほんの少しなめてみた。何の味もないのが物足りなかつた。二十六にもなつて、弟はまだ嫁ももらはないで、いまだにかうしたアパート住ひをしてゐるのがもんには可哀想でならない。何時召されるかも知れないと云つて、弟は兵隊に行つて戻つて來るまでは獨りでゐるのだと、このアパートにもう二年も獨りで住みついてゐる。日本橋の或る信託會社に勤めてゐて、時々詩や小説なんかを書いてゐた。糊壺のそばには、小さいレザー表紙のアドレスブツクがあつた。もんは手にとつてぱらぱらとめくつてみた。いろんな知人の住所のなかには、上海にゐたもんの所書きもあれ
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