山の菊五郎のお三輪があどけない姿で踊りをおどつてゐる。――糊壺をかぎながら、もんは、華やかな芝居だの、歸りの電車のなかのことなぞを考へてゐた。自分と結婚をしたいと云つてくれた親切な米倉の思ひ出もいまはなつかしい。
 翌日、もんは遲く眼を覺ました。丁度守一が出勤するところで、机の鏡に向つてネクタイを結んでゐた。もんはふつと躯を起した。長い間の勤めを持つてゐるものゝ癖で、もんはすぐ枕もとの腕時計を眺めた。「どうせ、起きたつて飯もないンですから、ゆつくり寢てゐて下さい」守一はよく眠つた朝の滿足した明るい表情でさつさと身仕度をしてゐる。「えゝ、でも、私もゆつくり寢てなんかいられないのよ。今日あたりからぽつぽつ仕事探しをしようと思つてるンだけど……」「仕事なンかまだいゝでせう。ゆつくり休んでからでもいゝですよ。姉さん一人ぐらひなら、結構食べさしてゆけますよ」「働くのいけないかしら?」氣が弱くなつてゐるので、もんは不安そうにたづねた。さして貯えもないのだし、このまゝ守一の厄介にもなつてはいられないだらう。もんはすぐ起きてガスで湯を沸かした。「お茶ぐらい飮んでいらつしやい。いゝでせう。薔薇の花のはいつた支那のお茶を淹れませう。まだ時間は大丈夫でせう?」もんはいつときでも守一と話をしたかつた。蒲團をたゝみ顏を洗つて來ると、手ぎはよく髮を束ねてゐる。格子縞の寢卷タオルの上から、羽織をひつかけてゐるしどけない姿の姉を見て、守一は珍しいものでも見るやうに、「姉さんのそんなかつこうを始めて見ましたね」と云つた。もんはきまり惡るそうに手早く櫛やクリームの瓶を片づけて部屋の隅で何時もの灰色のスートに着替へた。服を着た姉は、さつきとは別人のやうに職業婦人型になつてしまふ。「姉さんはいつも工藤さんと、そんなかつこうで逢ふンでせう?」「どうしてなの?」「うゝん、案外着物の方が似合ふからですよ」「あら、そうかしら、……」これは意外なことをきくものだと、もんは、洋服の方が働きよくて金もかゝらないと云つた。守一は一年前と少しも變化のない平凡な姉の姿を見て、世の中には時々縁遠くて、ひとりのまゝで生涯を果ててしまふ女のひとがゐるけれど、姉も案外そのうちの一人かも知れないと思つた。「米倉さんと云ふひとと、どうして結婚をしなかつたんです。年の若いものがこんな事を云ふのは變だけれど、そんなひとがあれば、姉さんも、い
前へ 次へ
全17ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング